高槻天主教会堂跡
所在地  大阪府高槻市
阪急京都線高槻市駅南400m野見神社東すぐ
最終訪問日  2008/10/8
高山右近天主教会堂と刻まれた碑 高槻城主であった高山友照と右近重友の父子が、布教活動の拠点として建てた教会堂。
 元亀4年(1573)、室町将軍足利義昭と信長の対立の中、高槻城を奪った友照と右近は、信長に仕えて城主と認められ、父子が信仰していたキリスト教を領内で保護した。宣教師のルイス・フロイスが記したところによると、翌天正2年(1574)に父子によってこの天主教会堂が建てられたといい、池や庭園を伴っていたようだ。
 もともと友照は仏教に明るく、宗教の論理や哲学に対する理解力に富んでいたとされ、その理解力からキリスト教の体系的、合理的な教義に深く帰依していたらしい。子の右近も父の影響で洗礼を受けていたが、自身が深く信仰するようになったのは、自分自身の体験に基づいて神の存在を感じたからともいわれている。
 父子の保護政策によって、高槻領内では領民におけるキリシタンの割合が8割近くに上ったといい、キリスト教に寛容だった織田政権下でも特に普及が早かった。だが、右近が天正13年(1585)に播磨国明石へ転封となり、更にその直後に秀吉によるキリシタン禁制が定められると、領内のキリスト教も大幅に衰えてしまい、この頃にこの天主堂なども破壊されたと思われる。そして、江戸時代には苛烈な弾圧が続いた為、信仰を続けた領民も、やがて茨木の隠れキリシタンのような村落ごとで密やかに信仰を続けるという形態になっていったのだろう。
 天主教会堂跡があるのは、かつて高山父子に破壊されたという伝承を持つ野見神社の東向かいで、商工会議所の建物の所に高山右近天主教会堂という碑と説明板が建てられている。この場所はかつての高槻城内で、また、三ノ丸からは十字架を墨書した木棺が発掘されており、右近の時代には高槻城周辺が宗教都市の色彩を強く帯びていた様子がありありと浮かぶ。また、少し北のカトリック高槻教会には、イタリアから送られた右近の像が立っており、父子の信仰心を今に伝えているようだった。