岸和田城 所在地 大阪府岸和田市
岸和田市役所南すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2003/4/26
岸和田城天守閣遠景 岸和田城の起こりは、建武元年(1334)に和泉守護となった楠木正成の族党和田高家が当地に代官として赴任し、その治所として築城したことに始まる。当時は一帯を岸と呼んでいたらしいが、和田氏が治める岸という地名を指してのことか、岸の和田氏という領主を指してのことか、時代を経て岸和田という地名が定着し、和田氏自身も岸和田と名乗りを変えた。ただし、この城は、現在の城から東南方向の野田町辺りにあったとされる岸和田古城のことである。
 楠木氏と共に南朝に味方して衰えた岸和田氏の後、岸和田周辺には新たに和泉守護となった山名氏清が信濃泰義を入れた。この泰義がやがて現在地へ城を移したというが、その年代は不明で、泰義入部の永和4年(1378)かそのしばらく後と考えられ、一説には応永年間(1394-1428)という。ただ、発掘調査からは、岸和田古城が15世紀末まで存続したことが判っており、現在の岸和田城の築城者が実際誰だったのかはまだ明らかになっていない。また、信濃氏の後、和泉守護細川家が7代、次いでその没落後は松浦盛から史料に登場する守護代松浦家が代々城主になっていたとされるが、実際に現岸和田城の城主として確認できるのは戦国中期の松浦万満の代で、辛うじてその父の守の頃から城主だったかと推測できるに過ぎないという。
 この頃の城は城館に近い形状であったらしく、現在の二ノ丸を本丸とし、その近くまで海が入り込んでいたようで、海を防御の要とした海城に近い城であった。また、細川家臣であった三好長慶の台頭後、その弟である十河一存が永禄元年(1558)頃に万満の後見として入ると、海上経由で淡路や四国と連携の取れる要衝として重要視され、同じく弟であった三好義賢によって改修が施されたようだ。
 その後、城の近くで起こった永禄5年(1562)の和泉久米田の合戦で義賢が討死して三好勢が敗れると、城を守っていた長慶の弟安宅冬康は退去し、勝利した畠山高政に与した細川刑部大輔が一旦入城したが、すぐに三好勢が奪い返し、松浦肥前守光なる人物が復帰したという。ただ、この光なる人物の詳細は不明で、あるいは万満と同一人物かも知れない。いずれにせよ、守護代松浦家は永禄11年(1568)の信長上洛のしばらく後には没落しており、岸和田城主としては松浦家臣だった寺田生家・松浦宗清の兄弟の名が見える。俗説によれば、寺田兄弟が下剋上によって城主になったともいう。
 この寺田兄弟の後は、堀秀政や桑山重晴、蜂屋頼隆などが城番を務めたが、天正10年(1582)の本能寺の変後に畿内を掌中に収めた秀吉は、敵対する根来寺に対する抑えとして翌年に中村一氏を配した。同12年(1584)には、城周辺で一氏と根来衆などが対決した岸和田合戦が起こっているが、落城は免れている。その後、城は翌年の紀州征伐の拠点としても使われたが、本格的に現在のような城郭を整備したのは秀吉の叔父小出秀政で、紀州征伐直後に封じられてから築城と城下町の整備を開始し、慶長2年(1597)には天守閣を完成させたといい、近世城としての岸和田城を完成させた。
本丸の櫓門と野面積の石垣 豊臣氏滅亡後、元和5年(1619)に松井松平氏、寛永17年(1640)岡部氏という親藩や譜代大名を配し、岡部氏が維新まで続くが、幕府は商都大坂の南の拠点として重視したようだ。
 城は維新後に廃城となり、現在は本丸と二ノ丸が城跡として残るが、その東南北を二重に囲むようにあった二ノ郭、三ノ郭は市街地化している。本丸には、文政10年(1827)の落雷で焼失した天守が昭和29年に資料館として復興されたが、往時の五層に対し現在は三層で、約10mほど低い。天守閣を囲む城壁や多聞櫓門も昭和45年に復元され、内部は郷土資料館として活用されているが、有名なだんじり祭りの時は双方とも休館となるのが岸和田らしいところだ。