茨木城 所在地 大阪府茨木市
阪急京都線茨木市駅北西500m茨木小付近
区分 平城
最終訪問日 2008/10/8
櫓門を復元した茨木小学校の校門 茨木城は、建武の新政下で摂津を得た楠木正成が建武年間(1334-36)に築城したと伝わるが、あくまで伝承であり、詳細は不明というのが実情である。その他にも、信長の家臣福富秀勝による築城説や、安富元綱の指揮下にあった山城国西岡衆の野田泰忠が応仁元年(1467)に茨木城に陣を敷いたことから安富氏による築城説もあるが、いずれも推測に過ぎない。
 この応仁元年に勃発した応仁の乱前後より、全国的に国人や地侍といった地付きの勢力が伸びてくるが、この茨木に勢力を持っていたのは茨木氏であった。茨木氏は、応仁の乱では細川勝元に従ったようだが、文明14年(1482)の国一揆に加担したことから勝元の子政元の討伐を受け、茨木城が落ち、主要一族が自害に追い込まれて領地も没収されている。そして、守護代として討伐にあたった薬師寺元長がこの城に居城したようだ。政元自身は後に茨木氏の復興を考えていたようだが、元長が頑なに反対していたらしい。
 薬師寺氏の茨木支配はしばらく続くが、元長の跡をその子とも甥ともいわれる元一が継ぐと、元一は永正元年(1504)に政元の養子澄元の擁立を図った叛乱で討伐されて滅んでしまう。守護代職は討伐にも参加した弟長忠が継いだが、同4年(1507)に長忠も同じく養子澄之の擁立を図って政元を暗殺し、元一の子万徳丸に城を攻撃されて討死した。
 細川家中の混乱の中で薬師寺氏が没落した後、どういう経緯かは不明だが茨木城には茨木氏が復帰し、永正11年(1514)には茨木家俊なる人物が在城していたようだ。恐らく、政元後の家督争いを制した細川高国に属していたと思われる。その後、澄元の子晴元が四国で挙兵して大永7年(1527)に高国政権を倒すと、茨木長隆が茨木城主となり、管領代として手腕を振るった。長隆は守護代クラスにも命令を発していることから、相当の実力を持っていたと考えられ、これが茨木氏の全盛期と言えるだろう。
 長隆後の茨木城主としては重朝の名が見える。重朝と長隆、長隆と家俊の関係は不明で、細川氏などの上層の権力変動が家督継承に影響した可能性は高いと思われるが、なんとか同族間で権力を継承することには成功していたのは間違いなく、重朝も新たに畿内の実力者となった三好長慶に仕えた。だが、長慶が永禄7年(1564)に没すると、家督を継いだ義継、重臣松永久秀、一族三好三人衆の間の対立で三好家中は分裂の様相を呈し、茨木城も永禄9年(1566)に池田勝正の攻撃を受けている。
 その後、同11年(1568)に信長が上洛すると、重朝は信長に従い、茨木城を安堵された。しかし、摂津国内は安定せず、池田勝正が三好三人衆の誘いを受けた一族の知正や重臣荒木村重に追われると、織田方の高槻城主和田惟政と重朝は協力し、反織田勢力と対決することになる。そして、元亀2年(1571)に茨木川の白井河原で双方が激突し、重朝も惟政も討ち取られてしまった。荒木村重を中心とする反織田勢は、余勢を駆って守備兵だけが残る茨木城にも攻め寄せ、城は炎上して落城したという。
唯一残る茨木城搦手門だった茨木神社東門 茨木氏滅亡後、村重の子村次が入城したが、後に中川清秀と代わり、城が拡張された。清秀は村重と同じ池田二十一人衆の出で、勝正追放に協力し、元亀4年(1573)に村重が信長に従った際にその与力となった人物である。村重の生粋の家臣筋ではないが、草創の功臣に近い存在であった。しかし、天正6年(1578)の村重の謀反では、最初は同調したものの、後に信長に降伏している。これは、高槻城主高山右近重友と同様クリスチャンだったとの説がある一方、謀叛の原因である本願寺への兵糧横流しは清秀家臣の仕業だったともいう。
 天正10年(1582)の本能寺の変後、清秀はすぐ秀吉と連絡して山崎の合戦で重友と共に奮戦し、翌年の賤ケ岳の合戦にも秀吉方として参陣した。だが、守っていた大岩山砦で佐久間盛政の攻撃を支えきれず、討死してしまう。清秀の跡は嫡子秀政が継いだが、同13年(1585)に播磨国三木へ移されて大坂に近い茨木城は秀吉直轄となり、安威了佐や川尻秀長が代官を務めた。この代官時代に城下町などが整備されたらしい。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、茨木城には秀吉子飼いの七本槍のひとり片桐且元が入部した。ただ、且元入部の時期ははっきりしないらしく、高槻城が秀吉直轄から離れた文禄4年(1595)という説があるほか、関ヶ原の合戦後も正式な領地ではなかったという説もある。それはともかく、徳川政権確立後も且元は豊臣家と徳川家の橋渡しの役割を担っていたのだが、方広寺の鐘銘の件以降、豊臣家内での立場が危うくなり、大坂の陣直前に大坂城内から逐電した。この直後の大坂の陣では、且元は家康側として参陣し、戦後に加増を受け、元々家康から与えられていたとされる大和国竜田へ移っている。そして、茨木の領地は天領となり、城も元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
 茨木城は、茨木小学校付近を本丸として、北西方向は安威川を防御線とし、縦横に堀を設けた縄張になっていたという。だが、城跡特有のT字路が多く見られるほかは、これといって縄張を示すものがなく、どのような構造であったかはよく分からなかった。城跡には昭和初期頃まで土塁などが残っていたらしいのだが、今では片桐町や大手町などの町名が城の痕跡として残っているのみで、ここから判るのは大手が南にあったということぐらいだろう。また、遺構として唯一残っているのは、茨木神社の東門として移築されている搦手門のみであるが、この茨木神社に残る石垣は、その古さや様式から見て、茨木城が存在した時代のもののようだ。もしかすると、当時の石垣がそのまま利用されたものかもしれない。これ以外で城の名残を感じさせるのは、茨木小学校の校門が櫓門を模したものになっていることぐらいだろうか。都市化でやむを得ないとは言え、痕跡がこれほど少ないというのは少し残念である。