ひめゆりの塔
所在地  沖縄県糸満市
国道331号線沿い伊原交差点北すぐ
最終訪問日  2001/9/6
 太平洋戦争末期、アメリカ軍の沖縄上陸によって急速に追い詰められた日本軍は南方に撤退するが、海軍は6月13日に、陸軍は6月23日に司令部の玉砕によって組織としての体を失い、徴用されていた民間人や学徒は、戦場の真っ只中で解散命令を受けて放り出された。そして、その中には看護訓練を受けて野戦病院などに配置された女子学生も多数いた。
 ひめゆり学徒隊の生徒222名と職員18名が動員されたのは南風原の陸軍病院だったが、軍の南部撤退に伴って病院も南へと撤退した。沖縄南部にはガマと呼ばれる自然の洞穴が多く、病院もいくつかに分かれて洞穴へと入ったが、すでに医療機器も医薬品も底をつき、病院としての機能は失われていたという。そして、6月18日に解散命令を受けた後、飛び交う砲弾の為に壕から出るに出られないまま、伊原第三外科壕ではアメリカ軍の黄燐弾などによる攻撃を受け、病院関係者や住民、学徒隊96名の内、81名が犠牲となった。また、他の壕にいた職員や生徒も激しい戦闘の中で次々と犠牲になり、最終的には学徒と職員合わせて136名が命を落とした。
 ひめゆりの塔は、多くの人が亡くなった伊原第3外科壕の上にあり、真和志村の村長で、学徒の遺族でもあった金城和信の呼びかけによって遺骨収集が行われ、村民の手で終戦翌年の4月5日に慰霊塔が建立された。また、このひめゆりの塔だけではなく、米軍に追い詰められて数々の悲劇が起こった沖縄南部には、それぞれにちなんだ鎮魂の塔もたくさんある。ちなみに、ひめゆりの名の由来は、師範学校女子部と第一高等女学校が併置される際、両校の校友会誌「白百合」と「乙姫」を合わせて「姫百合」としたことからで、ひらがなを使うようになったのは戦後からという。
 当時の惨状を伝え、命を落とした人の魂を鎮めるこの塔には、今でも沖縄に来る人の多くが訪れている。戦争を経験した人が少なくなっている今、伝えていかなければならないことが、ここには濃縮されて残っている。