山中鹿介幸盛墓
所在地  岡山県高梁市
JR備中高梁駅西南1.7km国道313号線沿い
最終訪問日  2008/6/20
山中鹿介幸盛の墓 山陰の麒麟児という異名をとった尼子家の忠臣、山中鹿介幸盛の墓。ちなみに、講談では鹿之助の字があてられている。
 尼子氏の庶流である山中満幸の次男として生まれた幸盛は、幼い頃から体が異様に大きかったといい、長じては武勇に優れた武将となった。一時、次男であったが故に尼子家家老亀井家の婿養子となっていたが、兄幸高が病弱であった為、兄に代わって山中家の家督を継いで山中姓に復したという。ちなみに、亀井家は尼子氏没落と共に断絶してしまった為、幸盛は室の妹とも自分の娘ともいわれる女性を湯新十郎国綱に嫁がせ、亀井の名跡を継がせている。この新十郎が亀井茲矩で、亀井家は江戸時代まで残ることとなった。
 幸盛にまつわる話としては、三日月信仰が有名である。尼子家の再興を願い、「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったのはあまりにも有名だが、その信仰のきっかけとなったのは、菊池音八正茂を討った一騎打ちの時であるという。この一騎打ちは、山名氏の尾高城攻撃の際の出来事だが、幸盛は出陣前、30日以内に武功が挙げられるよう三日月に祈っていたといい、以来、三日月を崇拝するようになったといわれる。しかし、この菊池正茂との一騎打ちは史料の裏付けが少なく、信憑性は低いらしい。
 幸盛が世に出た頃には、主家である尼子家はすでに斜陽であったが、そんな中で幸盛は武の面で主家を支え、毛利氏による月山富田城の包囲戦で高野監物、品川大膳将員を一騎打ちで討ち取るなど、勇将として名を轟かせた。特に品川大膳との一騎打ちは有名で、幸盛に対抗して狼介と名乗っていた大膳が幸盛に挑み、富田川の中洲で実力伯仲の両者が激闘を繰り広げ、組み討ちの末に幸盛が勝利を収めたと伝わる。
 しかし、幸盛の一騎打ちも一時的な士気向上には役立ったが、大勢を変えるまでには至らず、永禄9年(1566)に月山富田城は開城して尼子家は滅んだ。だが、幸盛の驚嘆すべきところは、これ以降の活躍である。
 月山富田城を落ち延びた幸盛は、京で仏門に入っていた尼子庶流の尼子勝久を擁立して再興軍を結成すると、同12年(1569)に尼子氏の本国である出雲に上陸し、一時は月山富田城を除いて出雲を席巻するほど勢力を回復した。だが、かつての本拠月山富田城攻略に手間取ると、やがて配下の統制の乱れや離反者が出るようになり、更には毛利本隊が到着して布部山の戦いに敗れ、再興軍は瓦解してしまう。この時、幸盛も末石城落城の際に吉川元春に降伏し、毛利家への出仕を命じられるが、体調不良を訴えて厠へ何度も通い、毛利家の警戒心が薄れたところで汲み取り口から脱出したという。そして、今度は中央を制しつつあった信長の支援を受け、山名氏と共に因幡へと転戦する。しかし、山名氏は織田家と毛利家の間を行ったり来たりと姿勢が定まらなかった為、やがて袂を分かち、市場城と若桜城を拠点として東因幡を制した。だが、これも毛利家が本格的に因幡制圧に転じると、織田家の支援も受けられず、押さえていた諸城を支えきれなくなって撤退に追い込まれてしまった。
 山陰での再興に失敗した幸盛は、松永久秀の信貴山城攻めで功を挙げ、対毛利戦線である秀吉の中国方面軍に入り、秀吉軍が落とした上月城へ入城して3度目となる再興戦に挑んだ。だが、この上月城は宇喜多軍と秀吉軍の境の城で、両軍による争奪戦が激しく、幸盛入城後も2度宇喜多方の手に落ちている。しかし、3度目に秀吉軍が奪った後、こんな小城に命運を託すことはないという周囲の声を押し切り、勝久と幸盛の主従は再び入城した。この時の幸盛には何か期するものがあったのだろうか。一方、上月城を重要視する宇喜多家は、盟主毛利家へ支援を要請し、やがて3万余という大軍が上月城を包囲する。すると、この報を受けた秀吉は急ぎ救援の為に軍を率いて向かったが、他の織田家武将の援軍を含めても兵数は遥かに少なく、毛利軍に決戦を挑むことができなかった。そうしているうちに、信長から三木城の戦いに専念せよとの命令が届いた。これは、実質的に上月城を見捨てよという命令である。こうして秀吉軍の撤退した上月城は後詰を失い、勝久の切腹によって降伏開城するよりほかなかった。このようにして上月城が落城した後、幸盛も捕えられ、安芸へ移送されることとなったが、結局は安芸に着くことなく、天正6年(1578)7月17日、備中高梁の阿井の渡しにて謀殺された。享年34。
 この謀殺に関しては、山陰で幸盛と対陣してきた元春が幸盛の不屈の精神を知っており、その危険性を察知して謀殺したといわれ、また、幸盛も毛利輝元と刺し違える覚悟であったという。史料としてこの辺りの詳細が残っているわではないので、想像の域を出ない話ではあるが、両者の性格を考えると、十分に有り得る話だろう。ちなみに、この幸盛の墓のある場所は、まさに幸盛終焉の地であるが、胴が埋葬された胴塚である。一方、首が送られた鞆の浦には、首塚があるという。
 個人的な感想としては、史実を見る限り、幸盛の武勇は人に抜きん出ていたが、指揮官としてはそれほど優秀ではなかったように思う。だが、それは幸盛の忠義心の評価とは関係ない。嫡流の尼子兄弟が毛利家の監視下にあり、擁立したのが庶家の、しかも仏門に入っていた勝久だったとは言え、主君にカリスマ性があるならばともかく当時の考えでは家の存続が第一であり、幸盛の尼子家に対する忠義は同時代にもなかなか見られないものである。ひとり武将としての生き様としては、成功しなかったとは言え、驚嘆すべきものだろう。