津山城 所在地 岡山県津山市
区分 平山城
最終訪問日 2005/11/24
天守閣石垣と復元された備中櫓 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で没落した赤松氏に代わり、山名宗全持豊の一族教清が美作の守護に就き、嘉吉年間(1441-44)に教清の叔父忠政が守護代として津山城の場所に鶴山城を築いた。だが、この城は山名氏の没落によって自然に廃城になったらしい。ちなみに、現在も残っている薬研濠や厩濠は山名氏時代のものといわれている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、合戦で大勢を決する寝返りを行った小早川秀秋に美作は与えられていたが、嗣子が無いまま没すると、代わって慶長8年(1603)に森忠政が入部した。ちなみに、忠政は本能寺の変で信長に殉じた森蘭丸成利の弟である。
 忠政は、最初はやや西の院庄に入り、神楽尾城を改修して主城にしようと考えたようだが、築城を巡って刃傷沙汰があり、また、津山付近のほうが適地と考えられることもあって、鶴山を津山に改称して慶長9年(1604)から築城に取り掛かかった。そして、元和2年(1616)に完成したのがこの城である。
 この築城にあたっては、忠政は実際に家臣を派遣し、細川家の小倉城を参考にさせたという。ただ、当時の城は軍事施設である為、そうそう他の家に縄張や築城技術を見せることはなく、当然、忠政も秘密裏に探ることを命じた。だが、探っていた家臣が捕えられ、森家の家臣が派遣されていることを知った細川忠興は、追放するどころか丁重に城を案内して大いに参考にさせ、津山城が完成すると、その祝いとして釣鐘を贈ったという。小倉城をよく自慢の種にしていた忠興らしい逸話である。
 森家はその後、忠政の子の早世によって、甥で娘婿でもある関成次の子、つまり外孫の長継を養子に迎えて家督を継がせたが、この長継には24人もの子がいたという。長継は、弟長政に分知して宮川藩を立てさせていたが、子の長治を長政の養嗣子としているほか、一門重臣となっていた下の弟衆之にも養子として子の衆利が入った為、弟達の系統は長継の子が受け継ぐことになった。一方の嫡流はと言うと、嫡男であった忠継が38歳で早世した為、忠継の子長成が成長するまで忠継の弟長武が家督を継ぎ、やがて予定通り3代長武から4代長成へと家督が受け継がれたが、長成は子供がいないまま元禄10年(1697)に死去してしまう。この時、末期養子として前述の衆利が森姓に復して藩主を継いだのだが、江戸へ向かう途上で発狂した為、継承が取り消され、結局は改易となった。改易が起こった元禄の世は、悪名高き生類憐みの令が発布されていた頃であり、この発狂騒動は、犬小屋の管理不行き届きを咎められた事で衆利が施策を批判し、幕府を憚って発狂したものとして処理されたということらしい。
 擦った揉んだの末、結局は改易となった森家だったが、子沢山の長継が未だ健在であったことや、織田氏時代から武名のある家ということもあって幕府は温情を掛け、長継自身の隠居料と、それぞれ長継の子である支藩宮川藩藩主の長治、新田藩藩主の長俊の3つの家が隣国に移封され、存続を許された。主城であった津山城の方は、美作の中心ということもあり、浅野綱長の預かりを経て元禄11年(1698)に親藩である越前松平家が10万石で入封し、こちらは維新まで続いている。
 城は、東に宮川、南に吉井川、西に藺田川を廻らせて天然の堀として使い、南側を大手、北側を搦手とし、南北と西には土塁と堀を構築して重臣屋敷を城内に入れた典型的な近世平山城で、この土塁上に6つの門と17棟もの小櫓を備えて厳重に外郭を防御し、その内側に城の主郭部があった。城の中心となる丘陵は、最上部を削平して本丸とし、その西側を石垣で区画して天守郭として独立させ、本丸と天守郭の南から西にかけて二ノ丸、その南に三ノ丸と、階段状に郭を配置している。この三ノ丸から本丸にかけての幾重にも重なる高石垣が、見上げると特に素晴らしい。
重層的に重なる石垣と紅葉 現在は、本丸から三ノ丸までの石垣は完全に残っているが、建物は明治6年に競売に掛けられ、翌年から翌々年に掛けてことごとく解体された。江戸時代に本丸御殿が焼失したのを除き、ほとんどの建物が維新まで残っていたことを考えると、壮大な石垣に見合う建物がそのまま保存できていたなら国宝級の城だっと思われるだけに、非常に惜しい。
 訪れた時は、復元工事中ではあった備中櫓を見学でき、内部には真新しい木の香りが漂っていた。個人的には、本丸から天守郭を含めた西北方向の眺めが、幾重にも重なる石垣が視界に入るので、とても気に入っている。