下津井城 所在地 岡山県倉敷市
瀬戸中央道児島I.C.西南1km
区分 山城
最終訪問日 2006/5/25
本丸跡と城址碑 下津井には、源平争乱の頃から城があったが、この場所ではなく、もっと海側にあったらしい。また、南北朝時代には足利尊氏が下津井に滞在しているが、これもその古城付近であったという。
 この新しい下津井城の築城年代ははっきりしないが、下津井の港を押さえる為に古城よりもより防御力が期待できる山の手へ城が移されたと考えられ、争乱が激しくなった戦国期にはすでにあったと思われる。或いは、海際の古城と並立し、古城の詰の機能があったのかもしれない。
 城が本格的に築かれたのは豊臣政権期で、秀吉の猶子として豊臣大名となった宇喜多秀家が、文禄年間(1592-96)に城を改修し、浮田家久を城主とした。ちなみに、この浮田家久の前の名は遠藤秀清で、日本で最初の銃殺による暗殺を行った遠藤兄弟の兄の方である。
 慶長5年(1600)、秀家は関ヶ原の合戦では西軍の主力を務めて敗れ、戦後は一時潜伏するも、結局は当然ながら改易となって八丈島に流された。これに伴って家久も浪人し、城は秀家に代わって岡山を領した小早川秀秋の属城となる。
下津井城縄張図 秀秋は、合戦の行方を決定付ける寝返りが有名な武将で、この辺りは勝者と敗者の典型的な運命を目の当たりにするようだが、備前はそれが顕著に表れた国と言えるだろうか。小早川時代は秀秋病没までの2年ほどと短かったが、下津井城はこの頃に改修を施され、秀秋の付家老的存在であった平岡頼勝が児島一帯を領し、城代を務めたという。ちなみに、この頼勝は秀秋に寝返りを勧めたひとりである。
 前述のように秀秋が岡山入部後2年で没し、小早川家が絶家となった後、岡山には池田輝政の子で家康の外孫にあたる忠継、忠雄が入封し、下津井城は池田一族の長政が城主となった。この長政は、恐らく恒興の四男と思われ、幼少の甥忠継や忠雄を補佐する役目を負っていたのだろう。また、この下津井城も長政によって大改修され、慶長11年(1606)に現在の遺構を完成させている。
 その後、長政が病没し、子の長明が幼少であった為、輝政の甥である由之が下津井城主となったが、由之は輝政没後に播州明石へと移り、代わって荒尾成利が下津井に入った。そして、寛永9年(1632)に岡山池田氏と鳥取池田氏の領地が交替となった際、由之の子由成が下津井へと復帰している。しかし、島原の乱以降は城に対する幕府の統制が厳しくなり、寛永16年(1639)に廃城となった。
本丸下の石垣 城は、鷲羽山からほど近い、下津井湊や瀬戸内を見下ろせる山にあり、一直線上に西から西ノ丸、本丸とそれを囲むようにある二ノ丸、三ノ丸、堀切を介して中ノ丸、やや離れた東出丸と並ぶ縄張の、石垣なども多く残る近世山城である。城跡自体は、瀬戸大橋開通で公園として整備されたらしく、城に到る遊歩道や城内がすっきりしていて散策しやすい上、城跡から所々眺望が開け、瀬戸大橋などを眺めることができるので、城好きでなくても楽しめる城だろう。ただ、遊園地が近いので、多少の音が常にあり、閑静とはやや言い難い。