小田草城 所在地 岡山県鏡野町
鏡野町役場北西3.5km
区分 山城
最終訪問日 2001/11/18
本丸付近の遺構と土塁 当地の豪族斎藤氏が標高390mの小田草山に築城し、居城としていた。麓の小田草神社の梵鐘から、貞治7年(1364)には城があったことが判る。
 斎藤氏は、もともとは浦上氏の被官だったようで、更に遡れば赤松氏の配下にあったのかもしれないが、地元の図書館などで郷土史を読まないと、このあたりは調べようがない。歴史上はっきりしているのは、天文13年(1544)の尼子晴久の美作侵攻の際、周辺の岩屋城、高田城、井の内城と同様に小田草城も降伏し、当主実秀が尼子氏に臣従したということである。だが、永禄8年(1565)に毛利元就によって月山富田城が攻められた時には、尼子氏の援軍依頼を断っており、この頃には既に尼子方から離反していたようだ。
 その後、同12年(1569)からの尼子再興軍の動きに斎藤氏は呼応しているが、その主戦場は伯耆や出雲であった為、やや離れた小田草城がどのような役割を演じたか、また、斎藤氏が再興軍に実際に参陣したかどうかなどはよくわからなかった。
 その尼子氏は、天正6年(1578)に上月城で敗れて滅び、斎藤氏は毛利氏に対抗すべく毛利方から織田方へと寝返った宇喜多直家に従ったが、毛利氏と宇喜多氏が争う中で小田草城を落とされ、当主近実は西屋城に落ち延びたらしい。その後の近実の動向はよく分からないが、一説には、小田草神社の宮司になったともいう。
 城は、比較的急峻ではない山に築かれ、郭や堀切の跡が明確に残っている。展望台となっている郭の下に2つ、上にやや大きめの郭が堀切を挟んで2つあり、その更に尾根続きには大きな堀切と土塁で画したもうひとつの郭がある。この展望台より上にある3つの郭が主郭だったのだろう。
 登山道は麓の小田草神社の一角から延び、非常によく整備されていて登り易い。展望台から朝日を浴びつつ眺めた景色はなかなかのもので、山を登った疲れも忘れさせてくれる。この展望台には落書き帳も置いてあり、神社も含めて集落で維持しているという感じで心地よく、心和む城だった。