成羽陣屋 所在地 岡山県高梁市
成羽小・成羽町美術館付近
区分 平城・陣屋
最終訪問日 2007/6/21
成羽陣屋鳥瞰図 成羽は戦国時代より三村氏の根拠地で、一時は家親が毛利元就と結んで勢力を急拡大させたが、宇喜多直家の謀略によって鉄砲で暗殺された。ちなみに、これは日本史上初めての銃撃による暗殺であるという。その後、毛利氏が仇敵の宇喜多氏と結んだことにより、家親の子元親が毛利氏に反抗して備中兵乱を引き起こし、敗れて滅ぶのだが、元親から離反して毛利方についた家親の弟親成が成羽を安堵され、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦まで領していた。ただし、この頃の居城は鶴首山頂の鶴首城が主で、鶴首城から少し北に離れた居館形式の成羽城も使われたらしい。
 関ヶ原の合戦後、名目上の西軍総大将であった毛利輝元は防長2州に押し込められた為、親成は毛利家を辞して成羽からも退去し、代わって旧宇喜多家臣で旗本の岡越前守が成羽に入部したが、慶長20年(1615)の大坂の陣で子の平内が豊臣方に属した為、戦後に切腹を申し付けられ、改易となった。次いで元和3年(1617)には山崎家治が因幡国若狭から入部して成羽藩が成立したが、家治は三村氏の居館であった成羽城を改修して使ったという。そして、寛永16年(1639)に山崎氏に代わって水谷勝隆が成羽に入封し、ようやくこの成羽陣屋の地に新たに城を興す工事を始めたのだが、3年後には備中松山城へ転封となってしまった為、城の完成には至らなかったらしい。
大手門跡 その後、万治元年(1658)に5千石の交替寄合として山崎豊治が成羽に入部する。この豊治は家治の次男で、丸亀藩主である本家の甥治頼が幼主であった為、成羽入部以前は5千石を分知されて後見人を務めていた。だが、治頼の病没で本家が無嗣断絶となり、豊治も合わせて取り潰されるはずだったところを、幸いにも分知された分だけがなんとか認められて家名存続を許され、旗本となって成羽に入部したのである。
 豊治は、自らの陣屋構築に際し、勝隆が起工していた工事を再開し、完成させた。それがこの成羽陣屋である。
 陣屋は大きく御作事場と書院、御庫に分かれるが、御庫の部分には野面積の石垣があり、それ以外は打ち込みハギで、野面積の部分が水谷時代、打ち込みハギの部分が山崎時代に築かれたものらしい。だが、基礎部分の縄張工事は勝隆時代に既に完成していたのではないだろうか。なぜなら、5千石の身代というにはあまりにも重厚な石垣で、大手門の桝形には櫓門もあったというから、無城大名クラスの陣屋に匹敵する規模なのである。つまり、すでに基礎工事の終わっていた縄張を石高に合わせて変更せず、基礎に沿ってそのまま工事を進めたということが想像できるのだが、どうだろうか。ちなみに、明治維新の際に石高の修正が行われ、晴れて山崎家も大名に列している。
 陣屋跡は現在、美術館と小学校になっており、残念ながら建物の類は無い。だが、かなり重厚な石垣が今も健在で、その周囲を廻っており、駐車場も旧成羽町役場にあるので、気軽に車を止めて散策が可能だ。また、後背には峻険な鶴首山が迫り、少し西の太鼓丸公園から鶴首城へ登ることができる。