松山城 所在地 岡山県高梁町
JR備中高梁駅北2km
区分 山城
最終訪問日 2001/6/24
 伊予の松山城を始め、同名の城が他にもある為、一般には備中松山城と呼ばれる。
 高梁川の水運を押さえる標高480mの臥牛山にあり、北から最も高い大松山、天神、小松山、前山の4つの峰を城郭化している要害。現在の本丸があるのは標高430mの小松山で、山城では最も高所に天守閣があり、唯一それを残す城でもある。
 延応2年(1240)、相模から地頭として入部した三浦一族の秋庭重信によって、大松山に砦が築かれたのが城の始まりという。鎌倉時代末期には秋庭氏に代わり高橋宗康が入部して現在の小松山へ城を拡張し、南北朝時代の文和4年(1355)には高師秀が入部したが、その家臣となっていた重信の子孫重明に追われ、秋庭氏が城主に返り咲いた。
 戦国時代に入ると、松山城には将軍の命で下ってきた上野信孝が入り、頼久、頼氏と続いたが、天文2年(1533)に備中の有力国人庄為資が、甥の植木秀長や同じく有力国人である三村家親と連合して勢力を拡げ、頼氏を討って入城した。更に永禄4年(1561)には毛利元就の後援を得て、尼子方に属していた為資の子高資を追い、尼子氏から派遣されていた城代吉田義辰を討ち破って家親が入城したが、三村家の急膨張を嫌った浦上家臣宇喜多直家によって家親は美作興善寺で暗殺された。この暗殺は鉄砲によって行われ、銃撃による要人暗殺の最も早い例らしい。
 家親の死後、子の元親は直家に弔い合戦を挑むが、永禄10年(1567)の明禅寺合戦で散々に敗れて求心力を失い、為資の子高資が松山城に戻って、宇喜多氏や、それと連合して再興を願う尼子氏の影響下に入った。そこで元親は、備中の足場を固めるべく再び毛利氏の後援を得て元亀元年(1570)かその翌年に松山城を攻撃し、高資を討ち取り、城を奪回した。しかし、毛利氏が将軍義昭の命によって浦上家から独立した直家と天正2年(1574)に和睦すると、直家に積年の恨みがある元親は毛利氏から離反して織田方に転じ、各地で毛利軍や宇喜多軍と戦った。これは備中兵乱と呼ばれ、この頃の城には21もの出丸があったらしく、元親もこの堅固さを恃んで戦ったが、やがて利を失って竹井直定などの離反者が続出し、同3年(1575)松山城は落城、元親も麓の寺で自刃した。
 その後、城には毛利氏の城代が入っていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は備中奉行を務めた小堀正次、そして遠州の名で有名な子の政一が入って荒廃していた城が再興された。そして、元和3年(1617)には池田長幸の所領となったが、長幸の子長常には嗣子がなく断絶し、代わって水谷氏が入部した。現在残っている天守や二重櫓は水谷氏2代勝宗によって修築されたものであるが、この水谷氏も3代勝美に嗣子がなく断絶し、この時の城の受け取りは赤穂浅野藩家老大石内蔵助が指揮している。そして、この水谷氏の後、安藤氏、石川氏と続き、板倉氏が最後の藩主として維新を迎えた。
 江戸時代の藩政は専ら麓の政庁で行われ、山頂の本丸には常時4、5人の留守居役が居るに過ぎず、山頂の城は活用されたとは言いがたいが、幕末に藩主の板倉氏が幕府要職にあったこともあって、明治6年に城を破却するよう維新政府から命ぜられた。板倉氏は山頂の建物については破却したと偽って報告し、そのまま朽ちるにまかせていたが、町の象徴として保存運動が起こり、残っていた二層の天守と二重櫓が現在は修復され、その他の櫓も復元されている。全国の城の大半が破却されてしまったことを考えると、経緯はどうあれ幸運な城である。
 実際に山に登ってみると、大手門あたりは石垣が折り重なるように圧倒的に前方に広がり、三大山城のひとつに数えられている理由がわかる。そのまま石段を登っていくと、門跡や郭跡が石垣で区画され、頂上に天守閣が待ち構えている。天守からは、高梁川と川沿いに広がる町並みが一望でき、なかなか壮大な景観である。また、麓の城下町や旧武家屋敷に未だ江戸時代の雰囲気を残しており、それほど都市化していない街は、散策するには良い趣を持っている。