鶴首城 所在地 岡山県高梁市
高梁市成羽地域局後背
区分 山城
最終訪問日 2007/6/21
鶴首山麓の太鼓丸公園 鶴首城は、奥州平定に功のあった河村秀清が文治5年(1189)に築城したという説もあるが、一時は備中を席巻した三村家親が、戦国期に築いたとするのが一般的である。
 三村氏は、清和源氏小笠原氏流といわれ、小笠原長経の子長時が常陸国筑波郡三村郷に住んでその子孫が三村を称したといい、やがて信濃国筑摩郡洗馬郷の地頭として移り住んだ。備中三村氏は、この一族が成羽のやや南、成羽川上流域である備中国星田郷の地頭として入部したのが最初とされ、入部の経緯はあまりはっきりしないものの、太平記に三村の名が出てくることから、鎌倉時代末期にはすでにある程度の勢力があったのは間違いない。
 南北朝時代から室町時代頃の三村氏の動向はよくわからないが、信濃守を代々名乗って在地領主化していたらしく、やがて成羽に進出したようだ。成羽付近は成羽荘という京都天竜寺の荘園であり、この荘園の押領を巡って南北朝時代には室町幕府とも争ったことがあることから、成羽への進出はこの時期と思われ、もしかすると既にこの頃には、山頂に何らかの防御施設を備えていたのかもしれない。
 三村氏の動向が明らかになってくるのは戦国時代の宗親からで、足利義稙を擁して上洛する大内義興に属したことがはっきりしており、新見荘に侵入するなどして守護代である庄氏や石川氏、上野氏などに次ぐ勢力を持っていた。宗親の子家親は、当初は庄為資の勢力拡張に協力して庄氏の全盛期を支えたようで、為資が松山城を攻略した天文2年(1533)に家親も成羽に拠点を移して城を改修したと現地資料にある。
 その後、備中の大部分が尼子氏の勢力圏に入り、尼子氏の衰退と大内氏の滅亡、毛利元就の台頭を経て国人間の対立が激化してくると、家親は元就の後援を得て積極的に領土拡張に動くようになった。天文22年(1553)には尼子方に属した為資の猿掛城を攻略して子元資を庄一族の中に送り込み、永禄4年(1561)には松山城を攻め、為資の子高資を追い、尼子氏の城代吉田義辰をも自刃に追い込んで城を奪取する。以後、家親は鶴首城から松山城へ本拠を移して備中を席巻し、元就の月山冨田城攻めなどにも参陣しながら備前の松田氏や美作の後藤氏なども盛んに攻め、勢力を拡大していく。また、鶴首城は弟の親成が城主を任され、西の拠点となった。
 この三村家の勢力拡大を恐れたのは備前の浦上家臣宇喜多直家で、永禄9年(1566)に家親が美作へ出陣した際、鉄砲術に長けた遠藤兄弟に命じて軍議を開いていた興善寺に忍び込ませ、家親を銃撃で暗殺してしまう。これは、日本で最も早い銃による要人暗殺とされる。この時、鶴首城主であった親成が機転を利かせて軍をまとめた為、その整然とした様子に直家は暗殺成功を信じなかったという。
 家親死後、三村家は嫡男元親が継いだが、永禄10年(1567)に備前での明禅寺合戦で宇喜多軍に敗北し、やがて同11年(1568)頃に再興を狙う尼子勢と連合した直家が、松山城や斉田城などを影響下に収めた。これにより、元親は鶴首城に退いたが、逆襲は早く、元親は毛利氏の後援を得て元亀元年(1570)かその翌年には松山城を攻撃し、城に復帰していた高資を討って再び居城とし、鶴首城には再び親成を据えている。
 しかし、その数年後には再び元親にとって不幸な事態が訪れてしまう。元亀3年(1572)に毛利家と浦上家が和睦したのはともかくとして、天正2年(1574)には、浦上家から独立した直家と毛利家が和睦したのである。これにより、不倶戴天の仇敵と和すことに納得できない元親は、毛利方から織田方に転じて毛利軍や宇喜多軍と戦うこととなった。俗にいう備中兵乱である。この寝返りは、元親自ら織田家に近付いたとも織田家から誘われたともいわれるが、恐らく両方の要素があったのだろう。三村家中でも賛否両論があり、親成や竹井直定などが反対したものの容れられず、結局、親成は経山城主中島元行を頼って出奔し、毛利方に属して元親討伐軍に従うこととなった。また、鶴首城も一時は親成の出奔で元親方に接収されたが、翌天正3年(1575)早々に毛利軍によって落城したという。
 同年夏に松山城が小早川隆景によって落城し、元親が滅んだ後、鶴首城主には親成が返り咲いた。しかし、元親離反を諫止できなかったことから、領地は半分に減らされたという。親成はその後も毛利氏配下として活躍し、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦まで成羽の領主であったが、戦後に毛利氏が防長二州へ押し込められた為、毛利家を辞したようである。その後、親成の許に一時寄寓していた水野勝成に召し出されて家老として出仕し、備後福山藩家老三村氏の始祖となった。ただし、没年は勝成の福山入封より前である為、親成自身は福山に足を踏み入れていないと思われる。
 関ヶ原の合戦後に成羽付近を領したのは、現地資料では旗本の岡家俊となっているが、資料通りに慶長20年(1615)の大坂の陣の際に長男が大坂方となったのが原因で改易になったとすれば、岡越前守のことだろう。越前守の諱は利勝や成定とも伝わるが、この越前守とは別系の岡家俊の存在を示す史料もあってややこしい。また、越前守の領地は備中江野7千石と表されることから、成羽付近に居を置かなかったと思われ、従ってこの頃には鶴首城も使われなくなったようだ。ちなみに、改易の理由に関しても、長男がキリシタンを匿った為という説もある。
 城は、鶴首山山頂に本丸を置き、本丸は一ノ壇から七ノ壇まで区画され、その北東に二ノ丸があるという。廃城は、現地に元和元年(1615)の一国一城令によるとある他、それ以前という説もあるが、手が入っていない為か、遺構の状態は良好らしい。
 訪れた時は、美術館裏側の登山道を登ったものの、草が繁茂して途中でにっちもさっちもいかなくなり、折り返したが、そこから少し西の太鼓丸公園から登山道が整備されていたので、どうやらここから登るのが正規ルートのようだ。だが、最初にえらく時間が取られたこともあって、登るのは断念した。ちなみに、この太鼓丸という名前は江戸時代に付けられたものだろう。この削平地が鶴首城の時代からあったかどうかは分からないが、成羽陣屋の位置から考えて、鹿児島城と同様に時を知らせる太鼓を音の聞こえ易い後背の高台に設置したものと思われる。