備前常山城 所在地 岡山県市
JR常山駅南西900m
区分 山城
最終訪問日 2016/10/15
備前常山城遠景 幕府の奉公衆であった上野氏の居城。
 常山城の築城時期には、文明年間(1469-87)や明応年間(1492-1501)などの諸説があるが、上野氏が築城したという部分は一致しており、室町時代中期頃の常山城一帯は、幕府奉公衆三番番頭を務めた上野氏の所領だったと思われる。ただ、それを裏付ける史料は見付けることができなかった。
 上野氏は、足利泰氏の子義弁に始まる足利庶流で、本貫は三河国八条院領上野荘であり、他の足利庶流と同様に同国で勢力を蓄えた家である。義弁の兄には、斯波氏の祖となる家氏を始め、渋川氏の祖義顕、一色氏の祖公深がおり、斯波氏と同等の古さを持つ家であったが、兄達の家系が守護大名として繁栄したのに比べると、栄達は地味であった。それでも、室町時代草創期の頼兼は石見などの守護を務め、中期には将軍家に近侍して奉公衆以外にも御供衆や申次衆に任じられており、幕府の名門であったのは間違いない。
 常山城には、明応元年(1492)から常山城を本拠として上野土佐守・肥前守が児島の支配に乗り出したとされるが、両名は一族の枝葉で、代官として現地に派遣されたものだろう。ただ、これ以降の城の事跡は不明で、次に城が登場するのは戦国時代が末期に差し掛かろうとする頃である。この時の城主は上野隆徳(高徳)で、同じ上野氏であるが、明応の頃の上野氏とは系統がやや違うようだ。
 隆徳の系は、明応2年(1493)の明応の政変で将軍職を追われた足利義材(義稙)が大内義興の助力で将軍に復帰した後、備中を固めるべく下向させた上野信孝に近しい系統で、信孝から鬼邑山城を受け継いだ高直の子が隆徳である。隆徳は、一時は備中をほぼ席巻しながら宇喜多直家に銃で暗殺された三村家親の娘を室に迎え、三村与党として活動したことから三村高徳とも史料に書かれているが、弘治年間(1555-58)にはこの備前の常山城へ本拠を移したという。この頃はまだ家親が健在で、三村与党であった隆徳も備中の地盤は安泰だったかと思われるが、どのような理由があったのかは不明である。
 その後、前述のように家親が暗殺され、嫡子元親が跡を継いだのだが、家親の弔い合戦と位置付けた明善寺合戦で、元親は宇喜多軍に敗北してしまい、やがて直家が三村氏の後ろ盾であった毛利氏に臣従することになると、親の仇が味方になることに納得できず、元親は織田方に通じた。こうして天正2年(1574)末に始まるのが、備中兵乱とよばれる一連の戦いなのだが、元親の義弟にあたる隆徳も元親に同調し、常山城に籠城するのである。
 戦いは、毛利軍が西から来攻する為、まず11月から翌年正月にかけて備中諸城が落ち、5月には難攻不落の要塞であった備中松山城でも内応によって天神丸が落ちた為、元親は城から落ち延びるのだが、途中で深手を負って6月2日に自刃した。常山城へは、同月4日に毛利軍が来襲し、浦(乃美)宗勝が城を陥落させている。この時、落城を悟って自害の準備をする隆徳に反し、父家親の勇猛さを受け継いだのか、隆徳の室である鶴姫は侍女らを率いて毛利軍に斬り掛かり、見付けた宗勝に一騎討ちを挑んだものの拒否され、最後は城に戻って自刃したという。
 落城後は、城に一時城番が置かれたが、同年中には直家に譲られて宇喜多三老に数えられる戸川秀安が城主となり、2万5千石を与えられた。直家は、天正7年(1579)に毛利氏から織田氏へと寝返った為、前線にあたる常山城は攻撃に晒され、翌同8年(1580)と更にその翌年に毛利軍の攻撃を受けているが、撃退に成功している。
 秀安の隠居後は、子達安が城主となったが、達安は慶長5年(1600)に宇喜多家中を二分した宇喜多騒動で主家を退転しており、直後の関ヶ原の合戦で西軍に属した宇喜多家は改易されてしまった為、後継の城主はよく分からない。宇喜多家改易後、備前岡山には小早川秀秋が入り、常山城は側近の伊岐真利が城主となったが、慶長7年(1602)に秀秋が跡継ぎの無いまま死去すると無嗣改易となり、新たに岡山藩主として池田輝政の子忠継が取り立てられ、支城の見直しで常山城は廃城になった。廃城後は、資材が下津井城に転用されたという。
 城へは、車が擦れ違うのが困難な幅ではあるが、車道が整備されている。しかし、訪れた時は中ほどで土砂崩れによって道路が決壊しており、城まで到達することができなかった。従って、城へ行く場合は、麓から登山をすることになり、それなりの装備は必要となるのだろう。また、いずれ一日時間を掛けて登りたい城である。