上原館 所在地 大分県大分市
JR大分駅東南1.3km
区分 平山城・居館
最終訪問日 2014/10/18
上原館に残る土塁の一部 かつては戦国時代の大友氏の居館と思われていた居館形式の城。西山城とも呼ぶ。
 大友氏の祖である能直は、養父中原親能が鎮西奉行だったこともあって、他の養子と同様に九州に勢力を扶養し、やがて豊後守護に任じられた。ただ、当時の守護は鎌倉や京に在るのが常態で、能直も鎌倉か京で過ごすことが多く、豊後での足跡は希薄である。本格的に下向したのは子の親秀、もしくは元寇があった孫の頼泰の代とされ、下向に伴って守護所が造営されたが、この頃の居館はこの上原館ではなく、国府があった今の古国府近辺に築かれたという。
 その後、鎌倉時代末期の元弘3年(1333)に、当主貞宗が鎮西探題北条英時に反逆する際、五男千代松丸に家督を譲った上で探題を滅ぼし、功績を挙げるのだが、この千代松丸が長じて氏泰と名乗り、やがて新たに守護所としての居館を造営したとされている。その新たに造営した居館が、一説にこの上原館のことで、後に時代を経て強勢となった大友氏が戦国時代に新たに築いたのが大友館であったという。ただ、上野の上原館と顕徳町の大友館の時代的な相関関係というのはまだ詳しく判っておらず、実際に氏泰が造営した居館は上原館であったのか、それとも大友館であったかということは、はっきりと判っていない。これらは、今後の大友氏遺跡の発掘調査などでおいおい判ってくるのだろう。いずれにしても、上原館の桝形などの防御施設を見るに、この館が戦国時代まで使われ続けたのは確実である。
現地にあった周辺図 構造は、大手口が桝形になってはいるものの、あくまでも単郭の居館であり、防御力はさほど期待できなかっただろう。とは言え、平地ではなく上野丘と呼ばれる大分川沿いの丘陵地に立地しており、地形に基づく一定の防御力はあったかと思われ、大友館の南の出城のひとつとして扱われたのではないだろうか。大手口は北西に向いており、西方向と南方向は空堀と土塁で固め、東側と北側は自然地形を利用した切岸になっていたようだ。
 現在は、旧市街の中に南辺の土塁の一部と城址碑のみがあり、小さいながら静かな古城という雰囲気があるが、この場所以外は市街地化され、遺構は見られない。周辺を散策してみると、特に北側などは平野部とは意外と標高差があるのが解り、城としての立地の良さも感じることができる。城址碑のある南辺の土塁は、公園化されている部分から西の天満社まで続いているのだが、その間は私有地になっていて立ち入りができなかった。この部分も史跡公園化すればもう少し雰囲気が出ると思われるのだが、込み入った場所だけに難しいのかもしれない。訪れる際の注意点としては、旧市街だけに道が細く、車を止める場所がないという所だろうか。国道が近く、周囲の3つの高校からもほぼ等距離で、バスでも便は悪くなさそうだ。