鶴賀城 所在地 大分県大分市
JR竹中駅東1.2km
区分 山城
最終訪問日 2015/10/18
二ノ丸の鶴賀城址碑 利光氏が居城とした為、利光城とも呼ぶ。
 城がいつ頃に築かれたのかは定かではないが、城の一帯はかつては大神氏系の緒方氏が治めていたという。ただ、城付近の大野川流域は戸次荘という荘園で、同じく大神氏系の戸次氏が現地管理者であった。緒方氏の本貫は、豊後大野市の緒方地区周辺であり、緒方氏と戸次氏がどのように周辺一帯の支配に関わったのかは不明である。
 緒方氏で有名なのは、頼朝の挙兵翌年に平氏に叛いた惟栄で、惟栄を始めとする大神氏の一党は、多くが惟栄と共に源氏方として豊後各地で勢力を固めた。惟栄自身は、頼朝と対立した弟義経に与して勢力を衰えさせてしまうのだが、大神諸族はそのまま勢力を維持し、やがて新たに入部した大友氏の家臣となった家が多い。大神一族として知られる37氏の中で、上の戸次氏のほか、臼杵氏や佐伯氏などが大友家臣として見え、戸次家中の由布氏や十時氏も大神氏の末裔と思われる。とは言え、戸次氏は鎌倉時代に大友親秀の子重秀を養嗣子にして大友一門となっており、臼杵氏もまた、大友系となった戸次氏から養子を入れた為、大友一門であった。ただ、戸次氏の鎌倉時代の待遇を見ると、大友系になったとは言えあくまで戸次氏で、その頃までは大友宗家と同格に近い扱いであったようだ。
 大友能直の豊後守護就任後、豊後国内では大友氏の支族が各地に封じられ、大友氏の基盤が固められていくのだが、その過程でこの城の一帯も大友庶流の親家が領し、利光氏を称したという。ただ、利光氏の出自は明確ではなく、能直の孫とあるが、前述の戸次氏から分かれたという説などもあり、詳しいことは分かっていない。また、利光氏成立後の事跡も鶴賀城と共にほとんど見えず、戦国時代末期の天正14年(1586)になってようやく宗魚の名で知られる鑑教が登場する。
鶴賀城縄張図 宗魚は、島津軍の豊後侵入時には肥前に出陣していた。11月に島津軍の攻撃を受けた鶴賀城は寡兵であり、子統久が和睦をするが、報せを受けた宗魚は急遽帰城し、和睦で油断している島津軍に夜襲を掛けたという。12月に入ると、島津軍の本格的な攻城が始まり、宗魚ら城兵3千は激しく抵抗するも、6日には三ノ丸から二ノ丸までが落ち、残すは本丸のみとなった。そして、翌日の本丸の攻防戦で、宗魚は流れ矢に当たったとも、櫓に登ったところを狙撃されたともいわれ、討死してしまうのである。だが、落城必至の情勢の中、嫡男統久や宗魚の叔父とも弟ともいわれる成大寺豪永らは、宗魚の死を秘匿して抗戦を続け、府内からの後詰を待った。この後詰要請に対し、府内の大友義統と秀吉家臣で軍監として派遣されていた仙石秀久ら四国勢が応じたのが、戸次川の合戦の始まりとなる。
 四国勢に僅かな大友勢を加えた連合軍と島津軍の両軍が川を挟んで対峙したのは、12日早朝であった。夕刻になり、仙石隊が渡河作戦を決行し、序盤は四国勢が押したが、これは島津軍得意の陽動伏兵戦術であり、誘い込まれて伏兵の突撃を受けた仙石隊は総崩れとなってしまう。これにより、続いて渡航していた十河隊や長宗我部信親隊も押し込まれ、包囲殲滅を受けた。この壊滅とも言うべき連合軍の敗退により、翌日には府内までもが島津軍に占拠されてしまい、島津軍に3千もの損害を与えた鶴賀城も開城へと追い込まれたのである。
 その後、島津軍は秀吉自らが出馬した翌年3月まで豊後に在ったが、上方軍上陸前に九州を統一して水際で防ぐという戦略が達成できなかった為、日向へと退いた。これにより、鶴賀城も大友氏の手に帰したはずだが、以後の事跡は不明である。また、利光氏も同じく不明で、統久が生き残っていたならば、他の大友家臣と同様に城に戻って旧領を支配し、文禄2年(1593)の大友家改易まで城に在ったと思われるが、よく分からなかった。ただ、少なくとも改易以降に機能していないのは間違いないようだ。
本丸から戸次川古戦場の眺め 城は、西から北にかけての麓に戸次川とも呼ばれる大野川を廻らす標高193mの山に築かれ、今の国道10号線のルートにあたる日向街道を扼し、府内から3里という距離にあって、支城網の内のひとつとして機能していた。構造としては、山の頂上部に2段で構成される本丸を置き、5方向に張り出す峰筋に段郭と畝状竪堀を設け、東に続く稜線のピークに二ノ丸、三ノ丸、北西に伸びる稜線に穀倉跡とノロシ台跡という郭を配置した中世的な山城である。ただ、二ノ丸、三ノ丸と名前が付いているが、二ノ丸は峰筋を利用した平場であるものの削平というほどの加工は見られず、三ノ丸も自然地形を残した平場のようで、あまり重要性があったようには思われない。一方、本丸の南、及び北西の峰筋の郭は技巧的で、より重点が置かれていたのではないだろうか。
 大きな車道から離れた場所に城はあるが、長宗我部信親の墓や十河一族の慰霊碑がある場所のすぐ東南から一部未舗装の道が伸びており、車体で雑草を払いつつもバイクで二ノ丸の下まで到達できた。車でも、軽自動車程度であれば難なく行けそうである。二ノ丸には城址碑や宗魚の碑があり、土塁も確認できるが、全体的に削平したという感じではなく、加工度合いが小さい。また、三ノ丸は入口までは簡単に行けるのだが、奥側は藪で立ち入れなかった。二ノ丸から堀切を挟んで本丸へ向かうと、形を非常に良く残した畝状竪堀があり、本丸下段はやや藪化しているものの、本丸上段の突端からは、戦場となった戸次川が一望できる。恐らく、籠もっていた城兵達もここから固唾を飲んで戦況を見守ったことだろう。眺望もあり、遺構もしっかり残っているので、満足度の高い城である。