大友館 所在地 大分県大分市
JR大分駅東1.1km国道10号線沿い
区分 平城・居館
最終訪問日 2014/10/18
大友氏遺跡体験学習館周辺の様子 古代から中世にかけて、現在の大分市は豊後の国府であり、鎌倉時代以降は豊後の守護を世襲した名族大友氏の大友館と呼ばれる居館があった。戦国時代の宣教師の書簡によると、北九州6ヶ国を制覇した大友氏の勢力を反映して5千軒もの屋敷が建ち並び、城下は西国一の大きさだったという。
 大友氏は相模国大友郷が本貫で、以前は源頼朝の庶子の出という伝承があったが、現在では近藤能成の子で中原親能の養子となった能直を祖とする説が一般的だ。ただ、いつ頃大友を名乗ったのかは諸説あり、能直の代という説の他、その2代前で藤原氏流波多野氏の経家が名乗り、その娘婿であった親能が名字を継いだとの説もある。
 鎌倉時代に入ると、養父親能が鎮西奉行だったこともあって、他の養子が西日本に基盤を得て門司氏や三池氏の祖となったのと同じように、能直も親能の代官として九州へ下り、やがて豊後守護に任じられた。しかし、他の守護もそうであったように、能直は京都か鎌倉で過ごすことが多かったようだ。本格的に下向したのは子の親秀、もしくは孫の頼泰らしく、この能直から3代の間に、現地支配者としてその3代の子らが各地に配置され、一万田、志賀、田原、戸次、木付、田北、入田といった後に大友家臣団の中核を担う庶族として勢力を扶養していった。ただ、この頃の居館はこの大友館ではなく、国府があった今の古国府近辺に築かれたという。
 鎌倉時代末期から建武期にかけては、菊池武時の鎮西探題襲撃の際に当主貞宗は探題側に与したが、やがて少弐氏や島津氏と共に鎮西探題を攻め、子の氏泰は足利尊氏に味方して豊前や豊後、肥前、肥後、日向などの守護職を歴任した。そして、南北朝時代には概ね北朝方に属し、今川了俊が九州に下向して以降はこれを盛り立てて大きく勢力を拡げている。
 この頃の守護所に関しては、氏泰の時代に古国府の守護所から移されたのは間違いないようだが、直接古国府からこの大友館に移ったのか、それとも上原館を本拠としていた時代があったのか、また、その時期に関しても明確ではない。戦国時代にこの大友館を本拠としていたのは間違いなく、その時期などに関しては今後の研究や資料発掘が待たれる。
 大友氏は、室町時代を通して有力な守護大名だったが、親治・義長・義鑑の3代で名家に有りがちな内訌を収めて権力を集約し、戦国大名への脱皮を果たした。しかし、後に全盛期を築いた宗麟こと義鎮が家督を継承する際には再び争いが起きている。義鑑は、粗暴であった嫡子義鎮を嫌い、重臣入田親誠と謀って三男塩市丸に家督を継がせようと津久見美作守、斎藤長実、小佐井大和守、田口鑑親に打診したところ、全員反対であった為、義鑑は翌日に斎藤と小佐井を謀殺したが、難を逃れた津久見と田口は身の危険を感じ、義鑑の館へ逆襲に討って出、塩市丸とその母を惨殺して義鑑にも瀕死の重症を負わせた。これが俗に二階崩れと呼ばれる内訌で、この大友館の二階で起こったことからの名である。襲われた義鑑は、死が近い事を悟り、義鎮を呼んで詫びた上で義鑑条々という遺言を残し、家督を譲り渡して息絶えたという。
 家督を相続した義鎮は、法名の宗麟という名を持ちながら、キリシタン大名としても少年たちを天正遣欧使節として派遣するなど、複雑な二面性を持つ武将であった。キリシタンに対する熱心さは、信仰からではなく、西欧の文物を得るためのものという説があるように、精神的な振れが大きい上、領内の宗教的地盤も複雑な人物だったようで、現在でもその評価は一定しない。事績を見ても、父が遺した有能な家臣団を指揮して一時は豊後を中心とした豊前、筑前、筑後、肥前、肥後に領国を広げ、大内氏や毛利氏と戦い、伊予や日向の一部も影響下に入れて九州統一に一番近かったのだが、元亀元年(1570)の今山合戦、天正6年(1578)の耳川の合戦で、龍造寺氏と島津氏にそれぞれ敗れて台頭を許し、龍造寺隆信を敗死に追い込んだ島津氏によって、中央を制していた秀吉に泣きつかねばならないほど追い込まれてもいる。
 この島津氏に追い詰められていた天正14年(1586)の九州征伐開始の頃は、大友館には家督を継いだ義統が居していた。だが、隠居した宗麟が臼杵の丹生嶋城で未だ実権を握っており、この二頭体制が大友氏凋落の因のひとつであったともいう。それはさて置き、義統は北上する島津氏に対抗する為、秀吉配下の四国勢と共に館から出撃したのだが、戸次川の合戦で大敗を喫し、この館も奪われてしまった。翌年の九州征伐後、なんとか豊後一国を安堵されて館に復帰できた義統であったが、朝鮮出兵中の文禄2年(1593)に敵前逃亡したとされて領地を取り上げられ、結局、大友氏は滅んでしまう。その後、義統は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際に西軍として挙兵するが、石垣原の合戦で敗れた為、大名としての再興はならず、江戸時代は義統の嫡子義乗が名家ということを拠り所に旗本高家衆として生き残ったに過ぎなかった。
 大友氏の改易後、豊臣家の直轄を経て豊後府内に入部したのは石田三成の妹婿福原直高で、慶長2年(1597)から北西1kmほどの所に近世城郭の府内城を築城し、館は大友氏の豊後での歴史と共に廃されることとなる。そして、早川氏を挟んで竹中重利が慶長7年(1602)に四層の天守を始めとする主要な建物を完成させ、江戸時代を通じての府内の治所となった。
 大友館があった場所は、かつては上原館のある上野丘だったと考えられていたが、その北で大規模な居館跡が発見されたことから、こちらの方を今は居館跡と比定している。居館があった場所は、現在の大分市街の西端で、国道10号線と県道21号線が分岐する交差点南西側の顕徳町3丁目の辺りだが、現地をぶらりと散策してみたものの特にこれといった遺構は無かった。江戸時代より前の廃絶で、改変しやすい平地の居館でもあり、現在も農地が広がっていることから、江戸時代に開墾されてしまったのだろう。ただ、大友氏の居館を含む一帯が国の史跡として指定されたことから、順次発掘調査が行われ、今後は大友氏遺跡事業として整備されていくようなので、今後が楽しみである。