高田城 所在地 新潟県上越市
JR高田駅東2km
区分 平城
最終訪問日 2001/9/17
現在の周辺図 江戸時代の上越を治めた高田藩の城で、徳川家康の六男松平忠輝の居城として、直江津にあった福島城を廃して慶長19年(1614)に築城された。忠輝の舅であった伊達政宗が普請総裁となり、東国13大名が普請して4ヶ月という短期間で完工したが、時間的制約からか天守や石垣を構築せず土塁でできており、東国らしい城の造りとなっている。
 初代城主であった忠輝は、家康の子という、江戸幕府では最も尊崇される血統を持ち、家康の次男結城秀康の家系である越前福井藩と共に、最大の大名であった加賀前田家を監視する役目を負っていたと思われるが、大坂の陣で遅参するなどの不手際や兄の将軍秀忠の命に度々背くなどした為、元和2年(1616)に改易となった。忠輝改易の理由は諸説あるようで、表向きは家康の遺命ということだが、秀忠は自らを蔑ろにして気ままに行動する忠輝を、幕府の威信を脅かす者と捉え、組織防衛の本能として社会的に抹殺したとも推測できる。また、越前福井藩の2代目である松平忠直も幕府に反抗的だったとされるが、将軍家の血族は、その血が濃いほど心に屈折したものを抱えやすいのは当然で、さらに才能に恵まれてしまった者ほど、その出しどころを与えられずに鬱屈せざるを得なかったのかもしれない。ちなみに、忠輝は転々と配流された果ての諏訪にて92歳で没したが、その晩年には文化的な貢献をし、庶民にも親しまれていたというから、その心情は涼やかなものになっていたのだろう。
 忠輝後の高田城には、酒井氏の統治時代を挟んで忠直の弟忠昌が入ったが、前述のように忠直が乱行で豊後へと移された為、越前福井に忠昌が移り、高田には忠直の子光長が入れ替わりで入部した。この光長は、地震で倒壊した天守代わりの隅櫓を三層にし、小栗美作を起用して城下町の区画整理や直江津港の整備などで治績を挙げたが、家督相続絡みの越後騒動と呼ばれる内訌が起こり、改易となってしまっている。その後の一時期は、天領となって城番が置かれていたが、稲葉政往が入部して高田藩が再び成立し、戸田氏、久松松平氏、榊原氏と続いて維新を迎えた。
城の象徴だった三層櫓 城は、明治3年に三層櫓などが焼失し、翌年の廃藩置県で廃城となって破却された上、明治41年には陸軍が土塁の削平や堀の埋め立てを行ったが、現在も方形に近い本丸とそれを囲う内堀、外堀の三方は良好な形で残っており、城址としては十分である。城跡の、内郭部分は公園化されており、外郭部分には現在は博物館などの公共の建物が建っていた。実際に堀沿いなどを歩いてみると、ほぼ当時と変わらない状態を残している感じで、土塁と堀の姿が美しく、城の規模もよく解る。また、城のシンボルだった三層櫓とそれに連なる塀が復元されており、見学する事ができるのだが、訪れた時は休館日で、そこだけは残念だった。