坂戸城 所在地 新潟県南魚沼市
JR六日町駅南東2.2km
区分 山城
最終訪問日 2014/5/11
麓の御館の石垣と城址碑 越後守護代である長尾氏の庶流上田長尾氏の居城。上杉景勝、直江兼続所縁の城としても知られる。
 坂戸城が築かれた時期には諸説あるが、鎌倉時代に城周辺の上田荘を領した新田氏の一族が前身となる城郭を築いていた可能性があるという。ただ、城が存在したとしても、簡易な詰城だったと思われる。城が本格的に築城されたのは南北朝時代とされるが、南朝方に属した新田氏の庶流が街道を押さえる軍事拠点として築城したとも、文和年間(1352-56)頃か貞治2年(1363)の上田長尾氏の入部後に築かれたともいう。また、その上田長尾氏の創始の城は越後上田城という説もあり、実際、15世紀末頃の大木六に上州吾妻を本貫とする尻高氏の一族がいる事を考えれば、坂戸と上田長尾氏の繋がりはもっと時代が下るのかもしれない。そのほか、穴沢文書では永正9年(1512)に大規模な築城工事を始めたともある。
 長尾氏は、相模の鎌倉党の一族で、頼朝の挙兵時に平家側に付いたことや、権力争いで滅んだ三浦氏の家臣だったことから、鎌倉時代は零落していたが、やがて上杉氏に仕え、上杉氏の隆盛と共に発展し、景忠が越後守護代に就いた。この越後の守護代を継いだのは、養子とも弟ともいわれる景恒(景廉)で、景恒の子は各地に分封され、三条長尾氏、古志長尾氏、そして上田長尾氏となるのだが、上田長尾氏の祖に関しては、長子の長景という説とその弟景晴という説がある。また、魚沼郡の妻有荘が関東管領山内上杉氏の領地だったこともあり、上田長尾氏は越後長尾氏の流れではあるものの、在地管理者として山内上杉氏の家臣という性格が強かったようだ。
 関東の戦国時代は、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立を中心に、上方よりも早く争乱に突入するが、それは越後にも様々な形で影響を及ぼし、次第に守護代の長尾氏が権勢を得るようになっていった。そして、永正4年(1507)には新守護として上杉定実を擁立した為景が、定実の養父房能を急襲して自刃させた為、翌々年には房能の兄で関東管領の顕定が討伐の為に越後へ出兵するという流れとなる。
 この顕定の出兵時、上田長尾氏の景隆・房長父子は、家臣として顕定に従い、山内上杉軍は為景と定実を佐渡へ追うことに成功するのだが、翌年には逆襲に遭い、劣勢を見た上田長尾氏は為景側へと寝返った。そして、関東との連絡点である上田荘の上田長尾氏の寝返りで退路を絶たれた顕定は、長森原で一戦に及ぶも、あえなく討死してしまう。これにより、山内上杉家の越後への影響力は失われ、上田荘の山内上杉家分は上田長尾氏が掌握し、勢力を大いに拡げた。上田長尾氏の家臣には、この時代に家臣となった家も多いのだが、それは急拡大の傍証とも言える。
坂戸城全体図 その後、房長は、為景が定実と対立した際にも為景側として活動し、永正11年(1514)六日市の合戦で定実側を破る功を挙げているが、天文2年(1533)に上条上杉定憲が反為景の兵を挙げると、揚北衆と共に定憲に加担し、以降は為景に対抗した。為景が天文5年(1536)に隠居し、後を継いだ晴景が融和路線を採って定実と和解すると、翌同6年(1537)頃には嫡子政景に為景の娘を迎えて和睦したが、晴景の弟景虎(謙信)がその武勇から家臣団の支持を集め始めると、当主となった政景は景虎側の古志長尾氏との対立から晴景に与している。そして、景虎の家督継承後の天文19年12月(1551.1)に叛乱を起こしたが、翌年に景虎が坂戸城を攻囲したことでに降伏し、以降は景虎の重臣として春日山城の留守居などを務めた。しかし、永禄7年(1564)に真相は不明ながら、政景は舟遊び中に溺死してしまっている。これについては、政景の叛意を察した宇佐美定満の謀略であったという説や、酔っ払った上の事故という説なとがあるが、真相は解明されていない。この後、上田長尾家は、嗣子であった次男顕景(景勝)が謙信の養子となった為、最終的に上田長尾家は長尾上杉家に吸収され、坂戸城も上田衆が在番する城となった。
 天正6年(1578)の謙信病没後は、景勝ともうひとりの養子景虎の間で家督争いが勃発するのだが、これを御館の乱と呼ぶ。乱の初期、実家の北条家とその同盟勢力の武田家の力を背景にした景虎側が有利であった。しかし、金蔵を押さえた景勝側がそれを軍資金に武田家を味方に付け、北条氏の援軍に対しては、この坂戸城を改修すると共に栗林政頼や深沢利重ら上田衆が出陣して撃退した結果、景勝が景虎を自刃に追い込み、上杉家の家督を継いだ。ただ、乱終結後も論功などを巡って悶着があり、順調に継承が進んだわけではなかった。景勝にとっては、同格の家柄であった府中長尾氏系の家臣より、上田長尾氏系家臣の方が当然ながら信用できる上に扱い易い為、論功を通じて家臣団の主軸に置くという狙いがあったのだろう。
 乱後、景勝及び上田衆の根拠地たる坂戸城は支城として一層重視され、天正10年(1582)に武田家が滅んだ後は、再び関東方面への防衛拠点ともなった。実際、滝川一益率いる織田方が侵入を試みているが、坂戸城は持ち堪えている。また、景勝の右腕直江兼続も、坂戸城の城主を務めたという。ただ、これについてはいつ頃の話なのか調べてもはっきりしなかった。兼続は直江氏の名跡を継いで以降は与板城主としか出てこず、上田衆の在番として兼続も在城したことがあるという話なのだろうか。
 慶長3年(1598)に景勝がが会津120万石へ移されると、越後は堀秀治とその与力大名が支配することとなり、坂戸城には堀直政の次男直寄が入城した。ちなみに、直政は秀治の父秀政の従兄弟で、天下の三陪臣と呼ばれた人物である。直政は、堀家に忠節を尽くしていたが、秀治を補佐する直政と秀治の弟秀家(親良)との対立があり、慶長13年(1608)の直政没後には直清と直寄の兄弟も対立した。これらの伏線が最終的に越後福嶋騒動となって露見し、同15年(1610)に堀家は改易となり、直寄は信濃飯山へ減転封されてしまう。こうして坂戸藩は廃藩となり、坂戸城も廃城となった。
 城は、西を水運としても使われた魚野川、東を皆沢川や三国川に遮られた、巻機山から北西に張り出した突端の標高634mの坂戸山に築かれ、戦国時代の山上部分と、堀氏時代の麓の根小屋部分で構成されている。山上は、実城と呼ばれる本丸を中心に、南西の尾根線上の別峰に堀切を挟んで小城、大城という出郭を設け、実城からやや下がって桃ノ木平の郭、東側にも堀切を経た先に主水郭があった。麓部分は、御館と呼ばれる藩主居館跡を始め、その北側に家臣屋敷、南西側中腹には本丸の役目があったという御居間屋敷の平地があり、御館では立派な石垣も構築されている。
坂戸城本丸 坂戸城へは麓からの登山となるが、450mの比高や険しさから、相応の準備が必要だ。最も一般的な薬師尾根の道は、陽が当たりやすい尾根筋の上、木陰が少ない為、まともに直射日光を浴びる箇所が多い。晩春から早秋に掛けての汗をかく時期には、水分補給と暑さ対策も必須だろう。しかし、登りさえすれば、明確な遺構と絶景が出迎えてくれ、見通しの良い城内の散策と、残雪残る山々の情景は非常に快かった。ただ、登山でも人気の山で、早朝でも登山客は多く、駐車場が一杯になりやすい点は注意が必要である。