本与板城 所在地 新潟県長岡市
JR小島谷駅南東3.9km
区分 山城
最終訪問日 2014/5/11
本丸の城址碑 名前が示す通り、古い方の与板城で、当然ながら築城当初はただの与板城と呼ばれていた。
 中世の与板に関する資料が少ない為か、この本与板城の築城時期などもはっきりしないが、伝承では、新田義貞の長子義顕の一族である籠沢入道が建武元年(1334)に築城したと伝わる。その後、室町時代から戦国時代にかけては、越後守護上杉氏の家臣飯沼氏の居城であった。
 越後国では、上杉房定の時代に領国体制の安定期を迎えるのだが、その子房能の時代になると、守護代長尾能景との対立が生じるようになる。それでも、まだしも従順であった能景の代は平穏であったが、能景が討死すると、子の為景は房能の養子定実を擁立し、永正4年(1507)に昂然と房能に対して叛旗を翻した。これを永正の乱という。
 為景は、この乱で房能軍を破り、追い詰められた房能は自刃したが、翌々年には房定の兄で関東管領山内上杉家を継いでいた顕定が越後に侵入し、定実と為景は佐渡に追われている。しかし、翌同7年(1510)には為景が逆襲に転じて顕定軍を破り、顕定も関東に落ち延びる途中で自刃に追い込まれた。これ以降、越後も完全に戦国の世となるが、この頃の飯沼氏の動向は不明確で、他の多くの豪族と同様、当初は定実・為景陣営に在ったが、後に顕定側に転じ、そして顕定が敗れて後は再び定実・為景側に戻ったのかもしれない。
 このような経緯で、越後には定実・為景体制が確立されたのだが、定実は所詮傀儡であり、やがて両者は対立するようになる。この時、飯沼家の当主頼清は定実陣営に付いたようで、永正11年(1514)に為景に城を落とされて没落し、代わって飯沼氏の重臣であった直江氏が城主となった。直江氏の長尾氏への臣従は、飯沼氏が敗れる前か後か、つまり内応なのか降伏なのかは不明なのだが、以降、直江氏は長尾家臣として活動したようだ。また、この頃の当主は実綱(景綱)の父親綱と思われる。
本与板城縄張図 上杉謙信時代に有名となる景綱は、親綱から家督を継ぐと為景やその子晴景に仕え、晴景の弟景虎(謙信)を擁立する動きがあるとこれに加わり、後に景虎の側近として軍政両面で重用された。また、本与板城の城下も景綱の時に整備されたと伝わっており、領主として内政手腕を振るった姿も浮かび上がる。その貢献度は、長尾家の通字である景の字を賜っていることからも、どれほどのものであったかが判るだろう。
 その後、謙信死去の前年である天正5年(1577)に景綱は没したが、景綱には男子がなく、娘の婿養子に長尾景孝を迎えており、景孝が信綱と名乗って跡を継いだ。この信綱も謙信に仕え、謙信死後の御館の乱では景勝に与したが、その恩賞を巡る山崎秀仙と毛利秀広の争いに巻き込まれて天正9年(1581)に春日山城で斬殺され、直江家は断絶の危機を迎えてしまう。この時、直江家の断絶を惜しんだ景勝が、下士の出であった樋口兼続に名跡を継がせ、直江家は辛うじて存続した。兼続は幼い頃から景勝に仕え、その信頼もあって政軍両面に渡って活躍し、会津転封後には、景勝が領した会津120万石の内、与力を含めた米沢30万石を領して名家老として名を馳せたのは有名な話であるが、本与板城の視点で見ると、兼続の時代には新しい与板城へと拠点が移されており、この城とはあまり関係が無くなっている。
 直江氏が、この城から拠点を移した詳細な時期は不明で、一般的には兼続の代に新たな与板城を築城して本与板城は廃されたとされるものの、一説には景綱が築城したともいわれており、実際のところはよくわかっていない。本与板城は、景綱時代に本拠地だったのは明確だが、新しい与板城が景綱の築城だとすれば、兼続の移転時まで新旧の城が並存していたことになる。また、兼続の築城とすれば、一般的な説のように新たな居城を建設したという可能性が高くなるのだが、本与板城の廃城時期も不明である為、兼続時代でも並存していた可能性は無いとは言えない。いずれにしても、並存なら片方が出城的な役割を負っていたと考えられ、少なくとも慶長3年(1598)の会津移封後には、両城とも廃城になっていたのは確実である。
 城は、本与板の集落の南西、与板の集落の北西にあり、東の信濃川を天然の堀としつつ、その水運を監視する役割があったのだろう。標高98mの本丸たる実城から、北西方向に堀切を挟みつつ二ノ郭、三ノ郭を並べた主郭部を中心に、その西にやや独立した形で西ノ郭、南には数段ある南ノ郭、東に前要害ノ郭を配置した縄張で、麓に御館の地名があることから、根小屋式の山城だったようだ。また、東南の白山神社の辺りも出郭として機能していたと思われる。
本丸の城址碑と縄張図 前回来た時は、時間の都合で城に登れなかったが、今回は余裕を持って散策できた。兼続が天地人で大河ドラマの主役となったこともあり、城への道は登り易く整備されていたが、下草はかなり繁茂しており、ブームが去った後という感じだろうか。ただ、遺構に関して言えば、実城から三ノ郭にかけては堀切や土塁などがきちんと形良く残っており、下草を掻き分けつつも散策していて面白い。ただ、数段ある南ノ郭は、藪化していて立ち入るのに難渋したほか、遊歩道を外れての散策には少し装備が要る感じだった。