春日山城 所在地 新潟県上越市
JR春日山駅西2.8km
区分 山城
最終訪問日 2001/9/17
本丸横にある毘沙門堂 あの上杉謙信の居城として有名で、五大山城のひとつに数えられている。
 謙信は、もともと越後国守護代であった長尾氏の出である。長尾氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏の裔で、有名な三浦氏や鎌倉党と同族であり、その祖は景弘や景行といわれる。史料では、源頼朝の挙兵戦である治承4年(1180)の石橋山の合戦で、平氏方であった大庭景親の配下として長尾定景と為宗の兄弟が見える。その後、長尾氏は総本家筋である三浦氏の家臣となっていたようだが、三浦一族は鎌倉幕府成立後に執権北条氏と対立して宝治元年(1247)の宝治合戦で滅び、その家臣であった長尾家の当主景茂も討死した為、以後の長尾氏は不遇であったようだ。
 長尾氏が再び勢力を得るのは南北朝時代で、景茂の孫景為が、鎌倉幕府の将軍になった宗尊親王に従って鎌倉に下った観修寺重房の被官となってからである。重房は丹波国上杉荘を領して上杉を名乗り、孫憲房は足利尊氏に味方して功を挙げ、その子憲顕は最初の関東管領となったが、この時の当主景忠は、上杉家の執事として上杉氏と共に勢力を各地に扶養した。越後の守護代を世襲した長尾氏は、景忠の弟とされる景恒を祖とし、その子孫は3つの家に分かれたが、三男高景の流れである三条長尾氏、つまり後の府中長尾氏が守護代職を世襲した。
 春日山城の築城時期は南北朝時代とされ、守御所のある直江津の府中始め、北陸道や信州、関東への街道を押さえる位置にある。名前の由来は、築城の際に麓に移った春日神社があった山だからというが、別名では八ヶ峯城ともいい、この高景が居したともいわれていることから、府中の詰として高景が築いたのかもしれない。
 本格的な戦国城郭に改修したのは、永正4年(1507)守護上杉房能に対し、その養子定実を擁して永正の乱を起こした為景である。為景は、乱後に定実を傀儡化して国主の地位を得、越中へも侵攻したが、その晩年には上条定憲の挙兵があり、揚北衆などの国人の叛乱もあって安定してはいなかった。為景の跡を継いだ嫡子の晴景は、定実を守護に戻して国人衆との融和政策をとったが、逆にその指導力を国人衆は疑問視し、還俗して栃尾城主となった弟景虎が周辺国人をたちまち平定したこともあって、景虎擁立の動きが出始めた。やがて、晴景は定実の仲介もあり、天文17年(1548)に景虎へ家督を譲って和解した。ここに後の上杉謙信となる越後国主が誕生したのである。
 謙信は、国内での家臣の叛乱などに苦労しつつも、北条氏康の勢力伸張によって関東から落ち延びてきた上杉憲政や、武田信玄に敗れた信濃の国人を保護し、その要望で幾度もの関東出兵や信濃出兵を繰り返した。有名な5度の川中島の戦いや小田原城の包囲は、このような戦いの中のひとつの局面である。また、小田原城を包囲した永禄4年(1561)は、包囲の直後に鎌倉の鶴岡八幡宮で憲政から上杉の名跡と関東管領職を相続し、秋には最も激戦だった4回目の川中島の合戦を行っており、いろんな意味で謙信にとって節目の年となった。
 謙信の晩年は、北条氏と同盟を組むなどして北陸に目を向け、越中を平定し、一時は信長とも同盟したが、後には本願寺と和睦して反信長包囲網の重鎮となった。そして能登を平定して加賀も攻めたが、新たな遠征の準備中であった天正6年(1578)に死去した。
 謙信の死後、春日山城では共に養子である景勝と景虎が家督を争った御館の乱が勃発し、春日山城の本丸や金蔵、兵器庫などの主要部分を占拠した景勝が三ノ丸に拠る景虎を攻撃した。一方の景虎は、麓の御館という建物に退去して兄の北条氏政に助けを求め、氏政は出陣の準備をすると共に同盟軍である武田勝頼に協力を依頼した。この動きを知った景勝は、金蔵の1万両と上州沼田を譲渡する約束で勝頼と和睦して北条氏の援軍も撃退し、翌年には御館を落として争いに勝利したが、この乱によって織田家に加賀や能登へ侵攻する隙を与え、恩賞の不満から新発田重家が離反するなど、上杉家の勢力は大幅に減退した。
 その後、天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横死し、その後継者争いによって織田軍の侵攻が止んだ為、景勝は国内の引き締めに取り掛かって叛乱した国人を討ち、同14年(1586)には信長の後継者となった秀吉に臣従した。以後、秀吉によく仕えて五大老のひとりに列し、慶長3年(1598)には会津へ加増転封となった。
 景勝転封後、春日山城には堀秀政の嫡男秀治が入り、春日山城を近世的に改修したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、より政庁機能を重視した平城を直江津に築き始め、秀治の子忠俊の代である慶長12年(1607)に福島城が完成し、長らく越後の主城として存在した春日山城は役目を終えた。
 現在の春日山城は、謙信と景勝の代に普請が繰り返されて壮大な戦国山城となった姿を非常によく残している。頂上には本丸と天守台があり、近くには謙信らしく、毘沙門堂、諏訪堂、護摩堂といった宗教施設置かれ、一段下には二ノ丸、更に下に三ノ丸と続き、搦手には三段に分かれている直江屋敷を配して防御としている。そのほかにも、柿崎屋敷や景勝屋敷など無数の郭があり、麓には1.2kmにも及ぶ惣構えがあった。これら天守や惣構えなどは、景勝か堀氏の時代の普請だろう。また、有名な謙信の居城である為、観光客も多く、それに伴ってかなり整備された遊歩道が全山に通っており、非常に登り易い城となっている。おかげで、藪を掻き分けたり道無き道を行かなくても、当時の山城の様子がとてもよく観察できるありがたい城である。
春日山城全図