枇杷島城 所在地 新潟県柏崎市
JR柏崎駅南西1.1km
区分 平城
最終訪問日 2014/5/11
枇杷島城址碑 詳しい築城年代は不明だが、近くの鵜川神社の由緒によると、上杉房方に従って伊豆から入部した宇佐美秀満の弟祐益が応安元年(1368)に築城したとあり、それ以降、戦国後期まで宇佐美氏の居城だった。また、字は枇杷嶋、琵琶島、琵琶嶋とも書く。
 宇佐美氏は伊豆に栄えた工藤氏の一派である。曾我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の弟で、源頼朝に仕えた祐茂を祖とし、本領である宇佐美郷は、後に日向に移った同じ工藤氏流の伊東氏の本貫である現在の伊東市街の北にあった。
 鎌倉時代の宇佐美氏は、吾妻鏡にも散見されるほど有力な在地領主で、室町時代になっても足利家と直接繋がりを持って勢力を維持したらしく、鎌倉公方の直参になるなどしている。だが、本家の当主であった定興は堀越公方に仕えていた為、延徳3年(1491)の北条早雲の伊豆侵攻軍と戦って討たれ、子の祐興も宇佐美城を攻められて自刃し、本領の宇佐美氏は滅亡した。
 一方、越後に移った宇佐美氏は、房方の子清方から分家した上条上杉氏の家臣となっていたようだが、定秀の代になって子が無く、断絶の危機に直面してしまう。しかし、本家からその滅亡の10年以上前に定興の子孝忠が越後に移って家を継いだようで、この人物が越後流軍学の祖宇佐美定行のモデルとして有名な定満の祖父にあたる。
 定満の父房忠は、永正10年(1513)に主君である上条上杉氏の定憲と共に上杉定実に与して長尾為景と戦ったが、定実が捕えられて幽閉され、やがて房忠も敗れて一族のほとんどが討死した。その中で定満はなんとか落ち延び、この時に一時城を失ったようだが、その後も定憲に味方して反為景の活動を続けている。為景の死後、その嫡子晴景と弟で後の上杉謙信である景虎が争った時には、景虎に味方してその家臣となり、以降は景虎の軍師として活躍したという。定満の事跡は、諸説や逸話などで混沌としているが、景虎に服さない長尾政景を謀略を駆使して従わせたといい、永禄5年(1562)に武蔵上尾原で討死したとも、謙信が川中島へ出陣中の永禄7年(1564)に謀反の気配がある政景を舟遊びに誘い出して政景共々溺死したともいわれる。
枇杷島城縄張図 城近傍の三島神社には、永禄7年(1564)に戦火の為に焼失したとあるので、年代的に考えると定満没後の混乱が窺え、溺死説に説得力があるように思われるが、どうだろうか。ちなみに、定満の孫とされる定祐が越後軍記を書き、その中で越後流軍学の祖として定行なる人物を登場させているが、これは架空の人物であるというのが一般的な説で、これが為に書自体の信憑性も低く、定満の当時の実情は推測するしか手が無いようだ。信憑性のある新たな史料の発掘が望まれるところだろう。
 定満の没後、宇佐美氏はどういう理由かはわからないが没落したとされ、枇杷島城主には上杉家の一門衆である琵琶嶋弥七郎が就いており、史料には同善次郎の名も見える。また、天正6年(1578)の謙信死後、その養子である景勝と景虎が家督を巡って争った御館の乱では、前島修理亮が景虎方として在城していたことが見え、翌年に佐野清左衛門尉に攻撃されて開城し、琵琶嶋氏、前島氏共に滅んだらしい。そして、天正12年(1584)頃からは桐沢具繁が城主となっているが、慶長3年(1598)の上杉氏の会津移封に伴って廃城になったという。
 城の構造は、蛇行した鵜川とその支流である本陣川を堀として活用し、南に本丸、北東に二ノ丸である東郭、本丸北側に三ノ丸である金郭があった。また、三ノ丸北側の鵜川沿いに1ヶ所、本丸南の本陣川沿いに2ヶ所の出郭があったようだ。今は直線化されて面影が無いが、当時の蛇行していた鵜川はよく氾濫を起こしたとされ、城の周囲には沼や湿地帯、深田が広がっていたのだろう。
かつては堀だった直線化された鵜川 最初に訪れた時はもう陽が沈んだ時間で、城址碑も見付けられなかったのだが、2度目は無事に城址碑に辿り着くことができた。城址碑のある柏崎農業高校辺りが本丸だが、高校が建設されるまでは高さ数mの土塁が残っていたらしい。高校の周囲は長閑な田園地帯と少しの住宅街が広がるばかりで、当時の情景を想像するのも難しいが、地図を見れば、北陸道や国道8号線、国道353号線という陸路が現在でも集まっている場所であり、更に柏崎の湊も押さえ得る城は、交通や物流の要衝であったことが一目瞭然である。