筒井城 所在地 奈良県大和郡山市
近鉄筒井駅北東250m
区分 平城
最終訪問日 2012/6/2
筒井城址碑付近は発掘調査が行われた 筒井氏歴代の居城。
 筒井氏は、古代の大族大神氏流とされるが、藤姓の説もあり、はっきりしない。ただ、添下郡筒井の土豪から出発し、興福寺の衆徒となり、興福寺の下で勢力を拡大していったのだけは確実である。また、筒井城も居館から次第に城郭へと整備されたようだが、永享元年(1429)が初見で、具体的な築城時期は不明という。
 中世の大和には守護が置かれなかったが、守護権力は興福寺にあった。興福寺は藤原氏の氏寺で、興福寺南円堂の本尊不空羂索観音が藤原氏の氏神である春日大社の祭神武甕槌命の本地仏とされた為、神仏習合によって同一化が進み、興福寺の僧官である衆徒と、春日大社の神領の荘官などであった国民を、共に興福寺が率いる体制となって行く。この勢力を持ちつつ、守護権力を執行する別当は、言わば守護大名と同等であった。
 寺の別当に就くことができるのは、一乗院と大乗院の門跡である。だが、権力が絡んで両者は次第に対立を始め、永仁元年(1293)には永仁の闘乱を引き起こして鎌倉幕府の介入を受け、南北朝時代にも南北朝に分かれて争った。当然、興福寺に属す大和の国衆も、両陣営に分かれて相争ったのだが、この過程で国衆が台頭し、大和は群雄割拠の時代へと移っていく。筒井氏は、このような中で次第に勢力を拡げ、越智氏、箸尾氏、十市氏と共に大和四家に数えられるまでとなり、この中でも筒井氏と越智氏の勢力が特に大きかったという。ちなみに、衆徒は筒井氏だけで、後の三家は国民の出身である。
 室町時代の大和は、この四家を中心に争乱が続き、応永11年(1404)には当主順覚が箸尾氏や十市氏と争い、正長2年(1429)の大和永享の乱では、順覚は一乗院衆徒の井戸氏に味方して越智氏や箸尾氏と戦った。この過程で筒井城も永享3年(1431)に攻撃され、後に幕府の支援で劣勢を盛り返して同6年(1434)に越智氏を攻撃するが、順覚の敗死で再び筒井城が攻められている。順覚の跡は嫡男順弘が継いだが、越智氏の抵抗はしぶとく、結局、乱は同11年(1439)に越智維通が討たれるまで続いた。
 乱の終結後、今度は筒井氏内部で対立が起こり、順弘とその弟成身院光宣が対立し、嘉吉元年(1441)に順弘が追われて同じく弟の順永が惣領となったが、同3年(1443)には越智家栄と結んだ順弘によって筒井城が落とされている。その後、順弘は家中を統率できず謀殺され、光宣が再び主導権を握ったが、大乗院門跡の経覚と対立し、同年9月には豊田氏や小泉氏、古市氏らと奈良で戦って敗北してしまう。だが、翌文安元年(1444)には筒井城を攻撃してきた経覚勢を光宣・順永兄弟が撃退し、翌年には経覚側の拠点鬼薗山城を奪い、官符衆徒の地位や代官職などを回復した。
 この頃、大和への影響力を持つ隣国河内の守護畠山氏に家督争いが起こり、その余波が及んでくる。この家督争いは、後の応仁の乱の一因にもなるほど根の深い争いで、筒井氏は箸尾氏らと畠山弥三郎を支持したが、康正元年(1455)に畠山義就派の家栄らに敗れて所領を失った。その後、長禄3年(1459)に管領細川勝元の取り成しで光宣・順永兄弟は筒井城に復帰し、すぐさま小泉氏を攻撃するなど勢力を拡大している。
菅田比売神社脇の堀跡 この後も畠山氏の内訌は続き、筒井氏は弥三郎の弟政長を支持し、後の応仁元年(1467)からの応仁の乱でも政長や勝元の東軍に属した。しかし、義就派が優勢となる中、順永が文正元年(1466)に、その子順尊は文明9年(1477)に、その子順賢も同15年(1583)に義就派によって城を落とされている。その後、政長の子尚順が義就の子義豊に叛いた明応6年(1497)に、順賢は義豊派の家栄や古市澄胤を攻め、勢力を回復したが、永正3年(1506)には管領細川政元の指示でその家臣赤沢朝経が大和に乱入し、筒井城も奪われたようだ。この侵入では、大和の国衆は団結して朝経に対抗し、翌年の政元謀殺の際に一時盛り返して筒井城に復帰するものの、直後に朝経の養子長経が大和に攻め入って国衆を破り、再び城は奪われた。だが、更に翌年には細川高国と結んで長経を破り、居城に復帰している。しかし、外圧が無くなった後は再び国衆同士で対立し、永正13年(1516)にも城が落城したようだ。
 順賢の後は弟順興が継ぎ、享禄元年(1528)の柳本賢治と天文元年(1532)の一向一揆による大和侵入を乗り切り、婚姻などで飛躍する基礎を築いた。その子順昭の代になると、最初は木沢長政、後に畠山稙長に属し、やがて越智氏を破り、十市氏とは和して実質的に大和一国を制する戦国大名へと成長する。しかし、英邁な順昭は若くして天文18年(1549)に病で隠居し、翌年には没してしまい、跡は僅か2歳の順慶が継いだ。
 この頃、中央では細川家臣から力を伸ばした三好長慶が実質的に政権を運営し、永禄2年(1559)には信貴山に三好家臣松永久秀が入って本格的に大和進出を図ってくる。順慶は未だ若年で、叔父らに支えられて対抗し、三好三人衆と久秀が対立した際には三人衆側に付いたものの、永禄8年(1565)11月には城を落とされ、布施城へと落ち延びた。だが、翌年6月には、久秀が三人衆と対峙している隙を衝いて筒井城を奪回している。同11年(1568)の信長上洛後、いち早く臣従した久秀はその勢力を背景に大和で勢力を拡げ、順慶は翌年に再び筒井城から落ち延びて叔父順弘の居城福住城に潜伏した。だが、順慶は十市城を落とすなどしぶとく勢力を養い、元亀2年(1571)8月には辰市城付近で久秀軍を破って放棄された筒井城の奪回に成功している。
 この後、同年11月には信長に臣従し、久秀が天正5年(1577)に信長に叛いた際には討伐軍の先鋒を務めた。この時、信貴山城から久秀の遺骸を運び出し、達磨寺に葬ったという話も伝わる。遺恨があるとは言え、僧侶らしい配慮だったのかもしれない。その後も、順慶は播磨平定や荒木村重謀反による有岡城攻めなどに従軍し、同8年(1580)の郡山城への本拠移転に伴って信長の命による城割が行われ、筒井城も廃城となった。
堀跡と土塁の高さを連想させる斜めに生えた木 国道25号線筒井町交差点の北西側が城跡で、菅田比売神社の少し西に筒井城跡という看板がある。看板一帯は発掘調査が行われた場所らしく、その報告書が掲示板に張られていた。この場所の裏手は田圃となっているが、看板の場所から一段低くなっており、往時は堀か湿地であったと思われる。この他では、菅田比売神社の東に用水路化した堀が残っており、北の光専寺の裏手にも堀と土塁の痕跡が残っていた。特に光専寺裏は、堀跡自体には水が残るという程度なのだが、堀端の木が斜めに生えており、かつての高土塁を想像させる。