高取城 所在地 奈良県高取町
近鉄壺阪山駅東南4km
区分 山城
最終訪問日 2003/4/27
巨大な天守台石垣 標高583.9mの高取山にある城で、日本三大山城のひとつに数えられる。
 築城したのは周辺の豪族であった越智那澄で、鎌倉幕府が滅ぶ直前の元弘2年(1332)に砦として構築された。当時は本城であった貝吹山城の詰城として使用され、吉野や高野山などで討幕軍を率いた護良親王との連絡用の城でもあり、越智氏の家臣と思われる子嶋掃部が城主として見えるが、恒常的な軍事施設ではなかったという。
 戦国時代後期から安土桃山時代にかけては、松永久秀、ついで筒井順慶が大和の国主となったが、順慶は平地にあって孤立しやすい郡山城の詰の城としてこの城を修復し、家臣の松倉氏に守らせたと伝わる。この人物は、恐らく筒井三家老のひとり筒井右近重信のことだろう。順慶の没後、郡山には秀吉の弟である秀長が入部し、同じく詰の城として本多正俊に命じて改修、増築させた。
 本多氏は秀長没後に大名となり、関ヶ原でも東軍について加増されたが、寛永14年(1637)に当主利家が没した後、嗣子なく断絶してしまい、代わって寛永17年(1640)に植村家政が2万5千石で入部する。植村氏時代も、城には更に改修が施されて維新まで存続したのだが、太平の世の中に山上での生活はやはり不便であった為、歴代藩主は城下町に下屋敷を建ててそちらに住み、家臣も屋敷を拝領して実質的な政庁は麓の城下町へと移っていった。ただ、重臣だけは山上に残り、城を守り続けたという。
幾重にも積み重なるような石垣群 このように、植村氏は2万5千石という身代に不相応な規模と防御力を持った城を与えられていたのだが、それは大半が天領であった大和に敵軍が侵入するなど何らかの動乱があった場合、幕府の本隊が到着するまで大和の幕臣をこの城に籠らせ、時間を稼ぐという思惑が幕府にあった為ともいわれる。
 その後、幕末には十津川郷士を擁した天誅組との戦闘が行われたりしたが、維新後、建物や敷地は入札にかけられ、明治23年に建物は解体されて敷地も近辺の寺の所有するところとなった。しかし、山頂で不便ということもあってか人手が入ることがあまりなく、そのおかげで遺構をほぼ完全に残しており、昭和28年には国の史跡に指定されている。
 実際に城へ登ると、これだけ高度のある山上に大規模で勇壮な石垣が構えられていることに、感動や驚嘆する人が多いのではないだろうか。構造としては、当時は大小2つの天守閣と鉛櫓、硝煙櫓を多聞櫓と塀によって連結した本丸があり、東に二ノ丸、大手門を抜けたその北に三ノ丸と続き、千早門の外には家老屋敷を始めとする武家屋敷群があった。また、本丸から他方に伸びる尾根筋にも武家屋敷が配され、これらの区割りがすべて石垣で構築されており、規模はかなりのものとなる。
城内を区画する城門 城の登山道は3方向に延びているが、植村氏による城の改修の実務に携わった3人の重臣は、城を守ることを祈り、それぞれ3つの城門付近に墓所を定めたという。また、山中にあって湿気が多いせいか城が傷みやすく、あれだけ城の改修や築城にうるさかった幕府も、さすがにこの城については常に修復できる権限を植村氏に与えていた。これは、天領が多かったこともあって大和の拠点は郡山城ぐらいしか無かった為、幕府にとっても重要な城だったことの証である。
 山奥にある城だが、訪れた日には10組弱の登山客を見掛け、意外と一般の方にも知られた城であるようだった。城内を散策してみると、木々が多く視界が開けていない為か、天守台から眺めてみても大分の岡城ほどの驚きはなかったが、逆に広がっている石垣群を足で回って確かめる楽しみがある城とも言えるだろうか。当時は麓から44町あるといわれた山道を徒歩で登っていけるが、現在は舗装道が城の直下まで延びており、車やバイクで楽に行くこともできる城となっている。