郡山城 所在地 奈良県大和郡山市
大和郡山市役所北西300m
区分 平山城
最終訪問日 2003/4/27
復元されている追手向櫓と追手門 戦国時代以前の奈良は興福寺などの寺領がほとんどであったが、台頭する国人層や武士化した僧兵などに押領され、戦国末期には三好氏の重臣であった松永久秀に侵略された。久秀は、信長が上洛するとこれに従い、旧領を安堵されて信貴山城、多聞山城を本拠としたが、武田信玄、上杉謙信の上洛が確実視されるようになると信長に叛旗を翻して対決姿勢をとった。しかし、両者の上洛はならず、久秀は信長軍に攻められて信貴山城で爆死し、代わって大和は筒井順慶が統一を進めた。
 順慶は、信長入京以前に対立関係にあった久秀を激しく憎んでいたらしく、久秀の本拠であった多聞山城を廃城にし、その資材を使ってほど近い郡山の地に天正8年(1580)から本拠の築城を開始した。だが、城自体は順慶からの創始ではなく、原型となる城砦がすでに天正6年(1578)にあったという。
 現在残る城郭の基本的な形を整えたのは、天正13年(1585)に大和、和泉、紀伊の太守として入部した羽柴秀長で、秀長亡き後は養子の秀保、秀吉子飼いの吏僚であった増田長盛と受け継がれたが、関ヶ原の合戦後は廃城となり、建物は伏見へと移された。この増田家から東軍への引渡しの際に、武略の士として仕えていた渡辺官兵衛了が、見事な采配をして整然と引渡したのは有名な話である。
 その後、城は城番が置かれるにとどまっていたが、やがて大阪の陣で戦功を挙げた水野勝成が6万石で封じられ、城の修築が開始された。この時、城は長年の放置で荒れ果て、城内は田地と化していたといわれるが、勝成は福島正則の改易によって備後福山に転じた為に修築が完了せず、代わって元和5年(1619)に入部した松平忠明の時にようやく伏見から建物が戻され、威容が整った。その後、本多、藤井松平、本多と3度の藩主交替があったが、享保9年(1724)に柳沢吉保の子吉里が入部し、柳沢家が幕末まで藩主となっている。
 維新後の明治6年に城は廃城となって売却され、建物などは全て取り壊されたが、本丸と二ノ丸の石垣、その間にある堀ははっきりと残っており、周囲をぐるりと1周してみると雄大さに圧倒される。現在、本丸部分は柳沢神社に、それ以外は高校や公共施設などの敷地となっているが、昭和になって大手門と櫓2棟が復元され、当時の姿を部分的ながら留めている。