興福寺
所在地  奈良県奈良市
奈良県庁南西すぐ国道369号線沿い
最終訪問日  2010/10/12
興福寺五重塔 薬師寺と並ぶ法相宗の大本山で、西国三十三箇所霊場の第九番でもある。本尊は釈迦如来坐像。
 興福寺としての創建は、平城京遷都と同じ和銅3年(710)であるが、前身は藤原鎌足夫人の鏡大王が鎌足の病気平癒を祈願して建立した山階寺である。山階寺の創建は天智天皇8年(669)で、3年後の壬申の乱終結後に飛鳥へ移って地名から厩坂寺と称し、平城京遷都と共に藤原不比等によって現在地へ移され、興福寺と名付けられた。ちなみに、興福寺に山号は無いが、かつては月輪山の山号があったという。しかし、山号を掲げた南大門付近で水が噴出するなど怪異な現象が起き、山号の額をはずすとピタリと収まったことから、山号は使われなくなったと伝わる。
 もともと興福寺は藤原氏の氏寺、つまり私寺として出発したが、藤原一門以外にも天皇や皇后が堂塔を建てるなど次第に公的な性格を帯び、平安時代には七大寺のひとつとして数えられるようになった。また、弘仁4年(813)に藤原冬嗣が南円堂を建立した際、その本尊である不空羂索観音が藤原氏の氏神である春日大社の祭神武甕槌命の本地仏であるとされた為、次第に春日大社と同一化して神社の運営も興福寺の衆徒が行うようになって行き、平安時代から鎌倉時代にかけては、春日大社の神鏡を付けた神木を押し立てて上洛するという、神木動座と呼ばれる強訴も興福寺の僧が主導して行っている。
 中世には、興福寺が寺の僧兵はもちろん、衆徒や国民といった大和の国人層を掌握して実質的に大和一国を支配し、相当な政治的影響力や武力を持っていた為、武家政権も大和には守護職を置けなかった。しかし、戦国時代になると、大和の国人層が戦国大名化して自立し、また、全国の寺領も在地の豪族に押領されるなどして次第に勢力を衰えさせ、最終的には、衆徒の出である筒井氏が織田政権に取り込まれた後、次の豊臣政権下で伊賀へ移されたことによって、興福寺による大和支配は完全に終焉したとされる。そして、江戸時代には、春日大社と興福寺一体の寺領社領として2万1千石余が認められたに過ぎなかった。
 その後、江戸幕府の崩壊で明治維新が成立すると、明治政府は勤王思想から神道を保護し、神仏分離の命令を出す。これが興福寺にとっては非常に大きな出来事となった。命令により、春日大社と興福寺のような神仏習合による神社と寺院の一体運営が認められなくなり、僧は強制的に春日大社の神職にされたほか、子院も全て廃されてしまう。また、結果的に廃仏毀釈という寺院衰退の潮流が全国に広がってしまった為、興福寺もその影響をもろに受け、境内を区切る塀が撤去されてしまい、それまでの境内は奈良公園にされてしまった。これは現在でも修復されず、仏教的意味での清浄な境内と猥雑な俗世というものを区画する境界が曖昧という、不完全な寺院形態のままである。
 法相宗というのはあまり聞かない宗派であるが、あの三蔵法師玄奘がインドから持ち帰った経典類のうち、成唯識論や解深密教を所依として弟子の窺基が創始した宗派で、唯識宗ともいう。日本では、後に開花した宗派には救済的な思想が入っているが、奈良時代に入った他の宗派と同様に法相宗は学究的で、信仰を広めて救済に導くという部分は無く、仏教の本質を研究する哲学的な宗派である。ただ、宗派が発祥した中国ではすでに滅んだとされ、奈良時代に伝わった日本で未だ存在するという、他の中国伝来の書物や文化と同じような歴史を辿っているのは、日本らしいといえば日本らしい。
興福寺東金堂 興福寺周辺は、一連の観光区域の入口にあたり、西や南にホテルが多くあるほか、寺の横には観光バスを止める駐車場もあるなど、ツアーなどの観光客の観光起点となっている。訪れた時は中金堂の再建工事が始まったばかりで、中央部に工事用フェンスがあるなど風情に乏しかったが、五重塔や東金堂はさすがの重厚感で、積み重なった歴史を感じた。ただ、やはり境内を区画する塀がないというのは、仮金堂の脇から国道の車列が見えてしまうなど締まりが無い感じで、神社や寺院に特有の厳粛感に欠ける。中金堂の完成は平成27年予定ということだが、回廊の再建も早く進めてほしいところだ。