上野撮影局跡
所在地  長崎県長崎市
長崎電気軌道新大工町駅南東60m中島川沿い
最終訪問日  2012/3/14
坂本竜馬の写真を復元したモニュメント 上野彦馬が文久2年(1862)に開業した日本最初期の民営写真館の跡。
 上野家は代々絵師の家系であったが、父俊之丞は蘭学や測量術、砲術を学び、各藩の硝石御用達商人を務めた。また、蘭学を学んだ経緯から、俊之丞は写真術も習得しており、日本で最初に銀板写真機を輸入した人物ともなっている。この写真機は薩摩藩主島津斉興に贈られ、俊之丞が斉興を撮った写真が、日本人によって初めて撮られた写真という。このように、彦馬が写真術に興味を持った背景には、写真と関わりの深かった父の存在があり、父から色々と見聞きしていたであろう事も、彦馬の人生に大きく影響したはずである。
 天保9年(1838)に俊之丞の次男として生まれた彦馬は、日田の私塾咸宜園で漢学や医学など様々な基礎学問を学び、安政5年(1858)からは、長崎海軍伝習所教授のオランダ軍医ポンペが設立した医学伝習所で、当時舎密学と呼ばれていた化学を学んだ。この時、勉学を進める過程で湿式写真に興味を持ち、ちょうど来日したフランス人のプロの写真家ロシェに写真術を学んでいる。また、同僚堀江鍬次郎と研究を重ね、鍬次郎が津藩の援助で購入した機材を持って共に江戸へ向かい、実際に撮影経験を重ね、文久2年(1862)には舎密局必携という本を著した。この本は化学の入門書となり、明治の中頃まで教科書として使われていたという。
 同年、故郷に帰ってきた彦馬は、それまでの経験を活かし、この場所に撮影局を開業した。当初は屋根の無い小屋が撮影に使われたが、開業20年後にガラス張りの撮影室が完成し、ビードロの部屋として長崎名物になったという。
 彦馬が幕末に撮影した写真は、向かいの亀山に本拠地を置いていた坂本竜馬を始めとする亀山社中の面々、勝海舟や高杉晋作といった幕末の巨魁、グラバーなどの外国人商人から長崎の庶民の風俗、そして長崎港の写真まで多岐に渡り、幕末から明治初期の様子を捉えた写真として史料的価値が非常に高い。また、彦馬自身も日本で最初の天体写真を撮影したり、日本で最初の従軍カメラマンを務めたりと、日本写真界の黎明期に残した業績は非常に大きなものがあった。ちなみに、2000年に上野彦馬賞が創設され、晩年は後進の指導にあたっていたという彦馬の遺志を継ぐように、写真家の発掘と育成を目的としたフォトコンテストが毎年行われている。
 上野撮影局跡の碑が建っているのは、路面電車の新大工町という駅の南側のビルの裏手で、碑自体は中島川沿いの道の脇にあるのだが、川沿いのモニュメントの方が目立つので視界に入り易い。このモニュメントは、懐に手を入れた坂本竜馬のあの有名な写真を再現したもので、当時の撮影機と肘置き台のモニュメントを同じ構図で配置し、竜馬の気分で記念撮影ができるようにしたものだ。しかし、なぜか肘置き台が低く、竜馬と同じぐらいの身長であっても同じポーズで撮るのはちょっと難しい。
 ちなみに、竜馬の一番有名な立ち姿の写真は、原板である湿板が井上家に伝わっていたことから、撮影局の主の彦馬ではなく、竜馬と同じ土佐出身で彦馬の弟子であった井上俊三の撮影というのが通説という。とは言え、この撮影局で撮られた写真というのは間違いなく、竜馬の足跡を辿るなら外せない場所である。