シーボルト宅跡
所在地  長崎県長崎市
長崎電気軌道新中川町駅北東300m
最終訪問日  2012/3/14
シーボルト宅跡全景 オランダ商館付外科医として来日したシーボルトの私塾である鳴滝塾と住居の跡。
 シーボルトの正式な名は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトで、ドイツ語圏のフォンは英語のofに相当し、後ろに地名が入ることでその領主という意味を表す。これは、日本での源朝臣徳川次郎三郎家康という正式名における徳川の部分にあたり、貴族領主階級の血筋という意味でもある。ただ、シーボルトの頃には、徳川が得川という地名とは無関係になっているように、フォンはただ貴族を表す名字の一部という認識になっていたようだ。
 シーボルト家は医学の名門で、祖父カール・パスカルはヴュルツブルグ大学の教授であり、この祖父の代に傷病兵の治療に対する貢献によって神聖ローマ帝国から貴族として認められている。また、父ヨハン・ゲオルグ・クリストフも同大学の産科婦人科教授を務め、叔父ダミアンもダルムシュタット市医療監察官であった。
 1796年2月17日にヴュルツブルグ司教領に生まれたシーボルトは、前述の父と母マリア・アポロニアの間に生まれた次男であったが、兄と姉は亡くなっていた為、実質的に一人っ子であったという。1歳の時に父が病死し、9歳からハイディングフェルトに居た母方の伯父フランツ・ヨーゼフ・ロッツのもとで養育され、12歳から聖ペーター教会のラテン語学校、14歳からヴュルツブルグの古典ギムナジウムに学び、19歳から祖父と父が教鞭を執ったヴュルツブルグ大学に在籍した。この間、神聖ローマ帝国の解散があり、シーボルト家は新たに成立したバイエルン王国に貴族として登録されている。
 その後、24歳で大学を卒業し、母の故郷ハイディングフェルトで開業医となったが、シーボルトの研究心は開業医に収まることを許さず、翌々年には国籍保持のままオランダ勤務の許可を得てオランダ王国軍医総監フランツ・ヨーゼフ・ハールバウアーを訪ねた。この時、ハールバウアーが不在であった為、一等書記官デュッケルに面会して意を伝え、オランダ領東インド植民地陸軍一等外科医少佐に任命されている。こうしてシーボルトはその年の内にオランダを出航し、ジャワ島赴任を経て翌文政6年(1823)8月に日本へと到着した。この時、生粋のドイツ語圏人であるシーボルトはオランダ語の発音が正確でなく、日本の役人に怪しまれ、山オランダ人で訛りがあると釈明したという。
 日本でのシーボルトの活動は、出島内での医療はもちろん、稲佐山などでの植物調査や多くの日本人を門人に迎えての西洋医学伝授など、非常に精力的であった。やがて、その評判は長崎奉行の耳にも届き、通詞宅での講義診療を許され、内科の診療の他、外科手術や分娩、眼科手術まで行っている。また、この出島外の活動の際に滝という女性を見初め、早くもその年の内に妻として迎えた。通説では滝は遊女其扇とされているが、遊女でなければ出島に入れなかったことから、遊女名義で出島に迎えたようだ。
 来日翌年には、郊外の鳴滝に日本人名義で民家を購入し、塾と薬草園を設け、医学や自然科学などを講義した。それがこのシーボルト宅跡であり、有名な鳴滝塾である。鳴滝塾は足掛け4年に渡り存続し、西洋医学普及に大きく貢献したほか、高良斎や高野長英ら門人による西洋書籍の翻訳で、医学以外にも影響を及ぼした。文政9年(1826)には、商館長ステュルレルの参府に従って門人らと江戸へ向かい、道中で各地の風習や景観の記録、太陽高度や経緯度の測定を行いつつ貪欲に文物や動植物を収集し、診療にも応じている。また、江戸を始め各地の学者と交流し、貴重品の贈答も行われた。
 この後、シーボルトは長崎へ帰り、翌文政11年(1828)に帰国する予定だったのだが、蝦夷地の標本を入手しようと間宮林蔵に送った手紙が発端となり、天文方筆頭兼御書物奉行の高橋景保から送られた伊能図の縮図を持ち出そうとした罪で軟禁されてしまう。一般に知られている、シーボルト台風で座礁した船の積荷から露見したという話は後世の創作で、実際にはバラスト代わりの銅が積まれていただけであり、シーボルトが送る予定だった船荷は出島の倉庫にあったらしい。いずれにせよ、シーボルトは幕府から御禁制品持ち出しの疑いで尋問や家宅捜索を受け、シーボルトは友人や門人を守る為に帰化を願い出るがそれも却下され、国外退去処分を受けて翌年年末に日本を出航した。
 オランダに帰ったシーボルトは、持ち帰った標本などから日本に関する書籍を刊行し、日本学の第一人者となったほか、政治的にもアメリカに日本の資料を提供して早急な武力行使の自制を働きかけるなど、帰国して尚、日本に愛着を持って活動した様子が窺える。その後、安政5年(1858)の日蘭修好通商条約締結によって再入国が可能となり、翌年にオランダ貿易会社の顧問という民間の立場で再び日本に来日した。この時、シーボルトの孫山脇たかの回想によれば、シーボルトは妻の瀧と娘のイネの髪や愛用品を見せ、忘れた日はなかったと言い、涙を流したという。再来日では、懐かしい鳴滝に2年間住み、やがて幕府の外交顧問に招聘されて上京したが、外国人顧問という存在には風当たりが強く、文久2年(1862)に解任されて帰国し、3度目の来日を実現できぬまま1866年にミュンヘンで死去した。だが、日本に対する愛情は、長男アレキサンダーや小シーボルトと呼ばれる次男ハインリッヒに引き継がれ、子供達も深く日本と関わることとなる。
 シーベルトが日本に与えた影響は医学に関するものが多いが、ヨーロッパへは動植物学や民俗学での貢献が大きく、最初の来日の際にヨーロッパへ送った標本などの資料は約2万5千点といわれ、一番多い植物標本は2度の来日で2万点にも及ぶ。これは、解剖学生理学教授のイグナーツ・デリンガー宅に下宿していたヴュルツブルグ大学在籍中に、植物学者クリスチャン・ゴットフリート・ネース・フォン・エーゼンベックから植物学の手ほどきの受けたことが大きい。ちなみに、日本とオランダの中継地であったジャワ島の茶栽培も、シーボルトが送った日本の茶の種子がその元という。
史跡奥中央に建てられたシーベルト胸像 シーボルト宅があった鳴滝一帯は、小川が流れる谷筋で、当時の市街地の端である。シーボルト宅の背後は今も急な崖で、山にへばりつく様に建てられた家は、値段もそう高くはなかっただろう。今の鳴滝は、閑静な住宅街となっており、史跡もその中の一角を占め、静かにシーボルトの胸像だけが建つ。その中で、ライデン市のシーボルト宅を模したというシーボルト記念館は、周囲と比べてやや異質だが、史跡の説明文を読んでから仰ぎ見ると、不思議と長崎の景観として受け入れてしまえるのは贔屓目だろうか。