長崎中華街
所在地  長崎県長崎市
長崎県庁南東350m
最終訪問日  2012/3/14
中華門が建てられている中華街の入口 日本三大中華街のひとつで、新地中華街ともいう。
 横浜や神戸と違い、江戸時代にも中国との交易が行われていた長崎には、最盛期で1万人ほどの中国人が居住していたといわれるが、居住区域はこの中華街ではなく、東南側の唐人屋敷の一帯だった。ただ、キリスト教徒ではない中国人に対する監視は緩く、唐人屋敷一帯以外にも日本人と混じって市街に雑居していたらしい。また、中国人が使う貿易用の倉庫は、今の長崎駅付近である大黒町や五島町付近にあったという。
 今の中華街一帯は、オランダ人居住区域であった出島からすぐ東南ということからも解るように、江戸時代の初期は海だった。だが、元禄11年(1698)の大火によって中国人の管理する荷が焼失してしまった為、市街地から隔離し、尚且つ管理しやすい場所への倉庫の建設を計画し、唐人屋敷の目の前の海を埋め立てて倉庫区としたのがこの中華街の始まりである。当時は、埋め立てた場所ということから、新地や新地蔵所と呼ばれたという。
 幕末になり、嘉永7年(1854)の日英和親条約や、その後に結ばれた日露和親条約によって長崎は外国船に対する補給港となり、日米修好通商条約などの安政五ヶ国条約の締結によって安政6年(1859)に中国やオランダ以外にも本格的に開港されると、新たに外国人居留区が設定され、これにより唐人屋敷一帯はその役目を終えた。そして、次第に中国人は海岸に近い新地へと移り住むようになり、今のような中華街が形成されていったのである。
 現在の中華街は、東西南北に中華門が建てられ、この4門を結ぶ十字路沿いに多くの中華料理店や中華系のお菓子や土産物を売る店が並ぶ。ただ、この十字路は、正確に言えば北東から南西方向と、南東から北西方向への2つの道でできており、北を上とする一般的な地図で見れば×の形で、地図と中華街の案内図を見比べると少しややこしい。
 中を歩いてみると、北門から十字の交差点と、東門から十字の交差点までの部分に店が多く、この辺りが中華街のメインのようだ。東アジアで最大の横浜中華街とはもちろん、神戸中華街からも2回りほど小さく、散策というほどの時間も掛からずに全部を見て回れるが、中華の街という雰囲気はさすがで、皿うどんかチャンポンのどちらかは食べて帰らないと、という雰囲気になる。