亀山社中跡
所在地  長崎県長崎市
長崎電気軌道新大工町南350m
最終訪問日  2012/3/14
亀山社中跡の碑と亀山社中記念館 日本で最初の株式会社といわれる亀山社中の跡。
 亀山社中は、土佐藩の脱藩浪人である坂本竜馬が設立した組織で、私設海軍兼商社という性格を持っていた。亀山社中の意味は、長崎の亀山を根拠地とした結社という意味である。ただ、亀山の名は明治以降の文献に見られるが、設立当時の資料では単に社中と表記されており、当事者達は社中と称していたようだ。
 社中設立のきっかけは、元治2年(1865)3月に幕府機関であった神戸海軍操練所が閉鎖されたことに伴い、竜馬を始めとした塾生が幕臣勝海舟の依頼によって薩摩藩に預けられたことに始まる。竜馬は以前から超藩的な活動が可能な組織の構想を持っていたが、これを機会として、この組織設立の為の資金を薩摩藩や長崎の豪商小曽根乾堂に仰いだ。こうして、改元された後の慶応元年(1865)閏5月に結成されたのが亀山社中である。
 社中の後身となる海援隊隊規には、超藩的活動が可能な脱藩浪士の受け入れや、勉励すべき修行科目として政法(政治学)、火技(銃火器技術)、航海、語学という言葉が並んでおり、社中は勝海舟の海軍塾を発展させた組織とも言えるだろう。また、運輸、射利(利益追求)、開柘、投機という文字から解るように、明確に営利組織でもあるということが記されいる。当時、政治的な結社や党は多くあったが、商船業を生業とする政治軍事結社というのは、相当特異な存在であった。
 当時の帝国主義下の各国の海軍は、商船保護や安全航路の確保といった重商主義的な性格を持っており、竜馬の考えは商船と海軍を合理的に合わせた性格の組織にするという意味があるが、それ以外に、政治活動をする上での経済力と軍事力による発言力の強化も目的のひとつだったのかもしれない。一介の脱藩浪士の集団が、雄藩に侮られないようにする為には、それなりの裏付けが要るのは当たり前の話だが、商業を絡めて軍事力を得るというのは、竜馬独特の着想の妙と言えるだろうか。
 竜馬は社中の設立後、当時犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の同盟に尽力し、正攻法の交渉で行き詰っていた両者の関係を、薩摩藩名義で買い付けた武器を長州藩に転売し、長州藩の米を薩摩藩が買い入れるという搦手からの方法で接近させことに成功する。また、この時、社中の斡旋によって薩摩藩名義で長州藩がユニオン号を購入し、ユニオン号の運用は社中が受け持ったが、これが社中としての初仕事となった。
 その後、社中所有のワイルウェフ号の沈没やユニオン号を駆使した長州征伐での下関海戦参戦などがあったが、ユニオン号を長州藩へ引き渡した後、新たに薩摩藩の保証で導入した帆船の大極丸が支払いの問題で航行不能となるなど、社中の経営は自転車操業に近かったようだ。やがて、土佐勤王党を粛清した土佐藩が方針転換したこともあって竜馬ら社中の土佐藩脱藩浪士が赦免され、土佐藩の援助を受けて慶応3年(1867)4月に社中は海援隊と名を変える。この海援隊は、一応は土佐藩の外郭団体という位置付けではあったが、社中の理念はそのまま維持され、脱藩浪士や庶民も相変わらず入隊が許されていた。ただ、本部は乾堂の弟で海援隊士でもあった小曽根英四郎の支援で、亀山から小曽根家の別邸に移り、名実共に亀山社中としての活動には終止符が打たれることとなる。とは言っても、竜馬自身は、この亀山に本拠を置いていた時代から小曽根家で活動することも多かったようだ。
 この亀山には、江戸時代の終わり頃に亀山焼という陶器を焼く窯があり、それが廃窯となった後、小曽根乾堂が跡地を買い受けたか借用を斡旋したかで、竜馬達がその家屋を利用するようになったらしい。窯があった場所というと、辺鄙な山の斜面を想像するが、亀山社中跡近くには良林亭という西欧料理専門店の先駆けの店の跡もあり、平地の少ない長崎では当時からこの一帯まで市街地が広がっていたことを物語っている。ただ、幕末の絵地図ではそれほど建物が描かれておらず、現在ほど建物が混み合って建っていたというわけではないようだ。
 竜馬を始めとする亀山社中の志士達が使用したと伝わる建物は、その後も存続し、市内有志らで結成した亀山社中ば活かす会が、平成元年より建物内部を公開して資料展示していた。その後、所有者の都合で一時閉鎖されていたが、長崎市が所有者の協力を得て建物の調査や発掘調査を実施し、平成21年8月1日から亀山社中記念館として当時の形で復元公開されている。ただ、亀山社中が本当に使っていたか確認できる資料は無く、記念館のウェブサイトにもその旨の記載があるように、あくまでこの建物に比定されているという話であり、建物は伝亀山社中跡とするのが妥当かもしれない。