クラバー園
所在地  長崎県長崎市
長崎電気軌道石橋駅西250m
最終訪問日  2012/3/14
グラバー園付近から長崎港の眺め 長崎の街は、江戸時代の鎖国政策での唯一の海外窓口として発展し、幕末の安政6年(1859)には函館や横浜と共に本格的に開港され、条約に従って翌年には居留地が設定された。それがグラバー園のある南山手や東山手と呼ばれる区域で、一帯は今でもその頃の歴史的な建物が多く存在する地域である。
 本格開港後の長崎には欧米列強の商人が集まったが、その中にマセソン商会の社員だったグラバーがいた。スコットランド出身のグラバーは、上海に出てマセソン商会の社員となり、本格開港してすぐの長崎で働き、後にグラバー商会を設立して独立する。そして、茶や生糸の輸出を営む傍ら、薩長土の討幕派に協力して海外渡航の手引きや武器弾薬の調達、船の購入仲介などで大きな役割を果たし、幕末史に大きな足跡を残した。来日当時21歳の若者だったグラバーは、同年代の志士達に共感するものがあったのかもしれない。
 このグラバーが住んだ邸宅が南山手にあり、後には長崎の実業家となっていた息子の倉場富三郎が住んでいたが、昭和14年には三菱重工長崎造船所が買い取ってクラブ施設として利用された。ただ、これには裏があり、長崎造船所で建造中だった戦艦武蔵の隠匿の為、造船所を見下ろせる高台に建つグラバー邸を強制的に明け渡すよう圧力が掛かったようだ。そして、富三郎自身は、後に原爆を投下された故郷長崎の惨状に絶望し、遺産を復興資金として寄付することを遺言として、終戦直後に自ら命を絶っている。このように、風光明媚で異国情緒漂うグラバー園であるが、その誕生の裏に暗澹とするような悲劇的な話もあったということは、あまり知られていない。
 終戦後、邸宅は米軍によって接収され、公舎となっていたが、4年後に三菱重工へ返還され、長崎造船所創業100周年記念事業として昭和32年に長崎市に寄贈された。これがグラバー園のそもそもの始まりで、長崎市はグラバー邸として翌年から公開すると共に、その後も近隣のリンガー邸やオルト邸などを取得、整備し、改めて昭和49年9月4日にそれらをまとめて開園したのが現在のグラバー園である。
 グラバー園には、居留地時代から建つ旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅のほか、大浦天主堂のそばにあった旧ウォーカー住宅、ドックの休憩宿泊施設だった旧三菱第2ドックハウス、上町にあった旧長崎地方裁判所長官舎、馬町にあった西洋料理店の旧自由亭、東山手にあった旧スチイル記念学校、旧制長崎高等商業学校の旧長崎高商表門衛所が移築されており、園全体に和洋が融合した明治時代の独特の雰囲気が漂う。また、別料金で明治の頃の衣装を借りられるので、衣装を着ての写真撮影やレトロな雰囲気の中での喫茶を楽しむことができ、明治の雰囲気をどっぷり味わいたい観光客には人気のようだ。
 大昔に行ったことがあるものの、記憶がおぼろげになっていたので上書きしようと寄ってみたが、見て回るのに予想よりもずっと時間が掛かった。自分が神戸出身というものもあって、明治時代の洋館に真新しさはないのだが、中に入ってみると、幕末期のグラバーやオルト、リンガーから明治期のウォーカーといった洋館主の西洋商人を始め、それらの人達に関わった坂本竜馬や岩崎弥太郎・弥之助兄弟、茶を輸出した大浦慶、前述の倉場富三郎、西洋各地で蝶々夫人を演じた三浦環まで、本格開港以降の長崎を彩る人物について通り一遍ではない詳しい説明があり、また、その遺品なども展示されていたからである。言わば、幕末から明治初期にかけての総合資料館的な趣があり、その時代のある程度の予備知識と興味がある人には、自分と同様に観光地よりも確実に資料館的性格の方を強く感じるだろう。おかげで、興味深く見学することができ、ただの観光というだけではない有意義な時間を過ごせた。