出島跡
所在地  長崎県長崎市
長崎県庁南150m長崎電気軌道出島駅東すぐ
最終訪問日  2012/3/14
出島の案内板 江戸時代の鎖国という制限貿易の為に築造された人工島。
 日本に鉄砲をもたらしたとされるポルトガル人は、16世紀中頃から日本に盛んに訪れるようになるが、その最初の寄港地は平戸であった。だが、平戸ではキリスト教と仏教の対立も絡んでポルトガル人と日本人が衝突した宮ノ前事件が起き、ポルトガル船は横瀬浦、福田浦、口之津など、南肥前で寄港地を次々に変えて行く。そうした中、キリシタン大名であった大村純忠が長崎を寄港地として元亀元年(1570)に開港し、翌2年(1571)からポルトガル船が寄港するようになった。これ以降、寒村であった長崎は港町として急速に発展していくのである。
 出島が築かれた当初の目的は、長崎開港以来、市街に雑居していたポルトガル人の管理の為であった。すでにキリスト教は禁止となっていたが、未だ南蛮貿易は許可されていた時代の事である。こうして、寛永11年(1634)に幕府と長崎の有力者25人が築造費用を出資して築造を開始し、同13年(1636)に出島が完成した。出島は、埋立地という意味の築島や、扇形の形状から扇島とも呼ばれたという。ちなみに、中国人に対してはこの後も市街での雑居が許され、後に唐人屋敷という居住区ができた後も出入りは比較的自由であったということから、いかに幕府がキリスト教を警戒していたかが解る。
 当初、ポルトガル人が築造に出資した有力者に対して土地の使用料を支払うという形で開始された出島であったが、翌14年(1637)からその翌年にかけて起こった島原の乱でキリスト教に対する警戒を強くした幕府は、同16年(1639)にポルトガル人を追放し、早くも出島は無人の島となってしまった。だが、出資した有力者の要請もあり、幕府は平戸にあったオランダ商館を同18年(1641)に長崎へと移したことから、ここに長崎のみを玄関口とした、江戸時代の鎖国という名の制限貿易の形が完成する。
 ちなみに、オランダがなぜ貿易を許されたかというと、ポルトガルやスペインなどのような、国教としてのキリスト教の布教と商業的進出が一体となったカトリックは、植民地支配の懸念が付きまとうのに比べ、オランダは個人主義的なプロテスタントであり、キリスト教と貿易を分離できるとの判断があったようだ。つまり、キリスト教が伝来して1世紀近くが経ち、理解が進んでキリスト教の宗派をちゃんと区別できるまでになり、幕府も一様にキリスト教を警戒したのではなかったということである。
 出島のオランダ商館には、商館長以下15名ほどが常駐し、羅紗、ガラス製品、書籍、胡椒、砂糖などが日本へ輸入され、銅や樟脳、陶磁器や漆器がオランダへ輸出された。また、19世紀初頭の一時期には、フランス革命に続くフランスのオランダ占領によって船の来港が途絶え、世界でもこの出島だけにオランダ国旗が翻っていた時期もあったといい、オランダの歴史上においても出島は無視できない存在であるという。
 その後、アメリカ東インド艦隊、所謂ペリーの来航によって強引に外から窓を開けられた日本は、オランダとも同様の条約を結ぶことになり、安政2年(1856.1)に結ばれた日蘭和親条約と翌年の出島開放令でオランダ人の入出島制限が完全に撤廃され、同4年(1857)の日蘭追加条約、その翌年の日蘭修好通商条約で日本人にも入島制限が無くなった。また、これに伴い、オランダ商館は総領事を兼ねるようになり、翌6年(1859)には正式に総領事へ移行したことによって商館は閉鎖されることとなる。出島が外国人居留地に編入され、完全に役目を終えるのは慶応2年(1866)だが、実質的な役割を終えたのはこのオランダ商館の閉鎖の年と言えるだろう。
 その後の出島は、幕末の西側や南側の拡張に始まり、明治18年からの中島川の変流工事で北側約18mが削り取られるなど形を変え、ついには港湾改良工事に伴う埋立で島ですらなくなった。ただ、オランダ商館跡だけは大正11年に国の史跡に指定されており、全く市街地に埋没して忘れ去られていたわけではなかったようだ。戦後になると、昭和26年から長崎市が出島オランダ屋敷跡の整備計画に着手して次第に民有地を公有化するなどし、昭和の終わり頃からは出島全体の復元整備構想へと発展させ、継続的に発掘調査も行った。平成に入ると、市制100周年事業での表門の復元を皮切りに、各種建物や護岸石垣などを復元し、今後は島らしく周囲に水面を確保する予定という。
現在の出島の全景と中島川 訪れた時は、建物の復元途中という話だったが、すでに第2段階の10棟が復元公開されており、遠目からでも十分に出島らしい姿になっていた。時間の都合で中には入らなかったが、中島川方向からの眺めや、路面電車の軌道沿いに見られる石垣など、当時の姿を想像できる場所は多く、周囲の散策だけでも雰囲気がある。ただ、やはり出島というからには、島状でないとどうもイメージに合わないというのも正直なところだ。復元工事が完成した暁には、四方に水面を確保した島の状態になるということなので、改めて再訪し、じっくりと雰囲気を味わいたい。