上原城 所在地 長野県茅野市
JR茅野駅北1.3km
区分 山城
最終訪問日 2012/10/12
上原城縄張図 諏訪大社上社大祝であった諏訪氏の居城。
 古代より続く諏訪氏の出自には複数の説がある。古事記には、大国主命の国譲りの際にその子建御名方神が敗れて科野(シナノ)の州羽(スワ)の海に落ち延びて助命されたとあり、諏訪氏はこの裔であるとも、神武天皇の子神八井耳命の後裔金刺金弓の子孫ともいう。このほか、信濃源氏のひとつである清和源氏源満快流という説や桓武天皇の後裔という説もあるが、いずれにしても諏訪大社の神官の家系は神氏と呼ばれ、高貴な血筋として尊崇された。
 平安時代末期になると、各地の神職系豪族と同様に、諏訪大社の神職の家も武士化して行ったが、源平の争乱で源義仲に与した家が多く、鎌倉時代は冷遇されたようだ。だが、上社大祝の諏訪氏は執権北条氏と懇意になり、後には得宗家の御内人として北条氏の権勢と共に地位を高め、やがて諏訪氏を中心に諏訪神党と呼ばれる武士団となって行く。また、諏訪大社は武士団の精神的背景となり、祭神が軍神ということも手伝って、祭祀などが各家に深く根付いた。
 諏訪神党は、鎌倉幕府滅亡後も親北条勢力の立場を持ち、建武2年(1335)の中先代の乱では、最後の得宗家当主北条高時の遺児時行を諏訪頼重・時継父子らが擁立して国衙を襲い、一時は鎌倉をも奪っている。だが、結局は下向した尊氏の軍に敗れて頼重は自刃した。その後も、これら親北条の豪族は南朝に服して北朝に対抗し、延元3年(1338)には伊那で再挙兵した時行を時継の子頼継が支援したほか、正平10年(1355)にも宗良親王に味方して諏訪氏は桔梗ヶ原で北朝方と戦ったが、いずれも敗れた為、信濃の南朝方は壊滅状態となってしまう。また、桔梗ヶ原の戦いには、下社大祝の金刺氏は参陣しておらず、上社と下社の争いはこの頃に芽吹いていたようだ。
上原城本丸 その後、信濃国人衆と守護小笠原長秀が争った応永7年(1400)の大塔合戦には、諏訪氏は国人衆側として家臣有賀美濃入道を送ったが、永享12年(1440)の結城合戦では守護小笠原政康の陣におり、この頃までに守護体制に組み入れられたと見られる。しかし、その後は小笠原氏にも、翌年の嘉吉の乱と翌々年の政康の死去によって内訌が発生し、また諏訪家でも、幼少の頃に大祝職を務め成人してからは職を譲って惣領となるという慣例が崩れて惣領家と大祝家に分裂し、信濃の情勢は混乱を極めていく。
 上原城の築城はこの頃といわれ、詳しい築城時期は不明だが、文正元年(1466)に諏訪信満が在城したことが見える。惣領であった信満は、大祝職にあった弟頼満と対立し、現上社前宮にあった居館から上原へ居を移したとされており、それは兄弟が対決した康正2年(1456)7月前後のことと思われ、この頃には既に城は在った可能性が高い。
 その後、内訌は信満の子政満と頼満の子継満との争いに引き継がれ、小笠原氏の内訌や諏訪神党諸氏の加担などで混迷の度を増していった。そして、文明15年(1583)正月、政満は金刺興春や高遠継宗が支援する継満の居館で謀殺されてしまう。だが、諏訪神党諸氏はこれを支持せず、継満は敗れて伊那へ落ち、興春は滅ぼされて下社は衰退し、翌年には大祝職に政満の子頼満が就いたことで大祝と惣領がまとめられた。これ以降、頼満は諏訪一円を支配し、諏訪氏は戦国大名化していくのである。
 頼満の跡は、早世した嫡男頼隆の子頼重が継ぎ、甲斐守護武田信虎の娘婿として共同で小県への出兵等もしたが、信虎が嫡子晴信(信玄)によって天文10年(1541)に追放されると、晴信は高遠氏や金刺氏と結んで諏訪へ侵攻を始め、翌11年(1542)6月には上原城を囲まれてしまう。不利を悟った頼重は、7月2日夜に城に火を放って桑原城へ退き、立て直しを図るが、兵の逃亡で抗戦すらできなくなり、4日に開城降伏した。そして、頼重は甲斐に連行されて自刃させられ、戦国大名としての諏訪家は滅んだ。
板垣平の諏訪氏館跡の碑 諏訪氏滅亡後、高遠氏の諏訪支配の野望を挫いて諏訪一円を支配した晴信は、上原城を支配拠点として重臣板垣信方を置き、城も改修された。今も上原城からやや下った場所に板垣平という地名があるが、そこが平時の治所で、かつては諏訪氏も居館を置いた場所という。その後、諏訪支配の拠点は次第に茶臼山高島城へと移っていったが、城の機能は維持され、天正10年(1582)の武田勝頼による木曾義昌討伐の際には本陣が置かれている。しかし、義昌救援の為に織田徳川連合軍が武田領に侵入した為、勝頼は新府城へ帰り、そのまま天目山で自刃して武田家が滅んだ為、城も廃城となった。
 国道20号線から頼岳寺方向へ折れ、永明寺山公園への細い道を登っていくと、中腹に諏訪氏館跡という碑の建つ板垣平の平地がある。ここが平時の居館跡だが、今は畑地化して遺構は少なく、地形から推測できる程度でしかなかった。板垣平を過ぎ、更に細い道を登って行くと、ヘアピンコーナーに上原城への登城口がある。ここから城跡まではすぐで、峻険ながら訪れるのが楽な山城だ。
 城跡に入ると、いきなり大きな堀切と2筋の竪堀が現れるが、この堀切は本丸とはなれ山という小山の間の堀切である。ここから遊歩道を進むと金比羅神社があり、ここが城の南西端にあたる三ノ丸で、このすぐ北東側上段に物見石という巨石のある二ノ丸が続き、更に北東側の上段に本丸が続く。また、二ノ丸からは細長い帯郭が本丸の北西南の三方に延びて本丸を防御していた。城跡全体としては、はなれ山を含めると本丸を中心とした正方形に近く、そこから南西側の峰筋に三ノ丸と、北西側の峰筋に段郭が張り出すような形となっており、三ノ丸から西へ真っ直ぐ下ると前述の諏訪氏館へと出るように、恒常的な城というよりも詰城の性格が強い。見所としては、本丸とはなれ山の間の堀切は見事な高さがあり、本丸から切岸と堀切を見下ろすと吸い込まれてしまいそうなほどであるほか、三ノ丸からは上川と宮川の作る平野部が一望に見渡せ、非常に景色が良かった。