高遠城 所在地 長野県高遠町
高遠町役場東南1km高遠湖後背
区分 平山城
最終訪問日 1996/8/25
 築城された年や築城者は諸説あってはっきりしないが、代々居城としていた高遠氏が築城したとみるのが妥当なところか。
 高遠氏は、木曾氏の支族との説もあるが、末期の継宗や頼継が諏訪氏を名乗っていることから、諏訪一族という説に説得力がある。諏訪上社の大祝職を世襲していた諏訪氏も、戦国時代には惣領家と大祝家に分かれて争い、守護大名から戦国大名へと脱皮した隣国甲斐の武田信虎の侵入を受けたが、天文4年(1535)に和睦し、同9年(1540)には信虎の娘を室とした。しかし、信虎が後の信玄である晴信に追放されると再び侵入が開始され、天文11年(1542)諏訪氏は滅亡した。高遠頼継はこの時、武田家に通じたが、戦後の処遇に不満があるとして叛旗を翻し、信玄と合戦に及んだが敗北、逆に侵攻を受け、天文14年(1545)開城降伏した。
 晴信は、天文16年(1547)に山本勘助晴幸と秋山信友に命じて城を拡張し、伊那地方の拠点としたが、翌年の上田原の合戦で村上義清に大敗すると、伊那地方の動揺を抑える為に頼継を戻した。その後、城主は秋山信友、信玄四男の諏訪勝頼、信玄の弟信廉、五男の仁科盛信と、重要な拠点らしく重臣や親族が城主となっている。
 特に盛信は、油川婦人を母として信玄の五男として生まれ、初名を五郎晴清といった。四郎勝頼が諏訪の名跡を継いで諏訪旧臣を宣撫したのと同様に、信玄が誅した有力国人仁科盛政の名跡を継いだ人物で、天正10年(1582)の信長の武田攻略軍5万に対して僅か3千で籠城し、凄絶な玉砕戦を演じた。開城や敵前逃亡の多かった武田家中では、武田武士の意地を見せた数少ない武将だろう。
 武田氏滅亡後の高遠城は、武田征伐で功のあった毛利秀頼に与えられたが、同年の本能寺の変後は武田遺臣の保科正俊・正直父子が攻略し、家康に属して天正13年(1585)には松本城主小笠原貞慶の攻撃を撃退している。家康の関東移封後は、飯田城主の毛利秀頼、京極高知の属城となり、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は正直の子正光が再封して高遠藩が成立した。正光は2代将軍秀忠の唯一の庶子正之を養子に迎えて自らの子として育てたが、弟がいることを知った家光によって正之は累進し、やがて松平性に復して会津23万石の藩主となった。この家系が幕末の会津藩である。
 保科氏が転封した後の高遠は鳥居氏、内藤氏と続くが、この内藤氏が江戸藩邸を構えたのが今の新宿で、当時は内藤新宿と呼ばれ、敵が甲州街道を攻め上ってくる際の江戸防衛の最初の拠点という役目があった。今はその縁で、新宿区と高遠町は友好都市らしい。
 城の規模はそれほど大きくないが、三峰川と藤沢川に削られた断崖に三方を囲まれ、丘陵を利用して本丸や二ノ丸、南郭を中心に段階的に郭が配置されており、なかなかの要害である。明治まで藩庁として城が使われたが、戦国時代末期の城の構造が維持され、更に明治5年に民間へ払い下げられた後も、橋の石垣や空堀などの遺構がしっかりと残っており、当時の城郭の構造を把握できる城である。
 現在の城跡には、明治になって旧藩士が馬場から桜を移したのが最初となって、1千5百本以上のコヒガンザクラが植えられており、桜の名所として春には多くの花見客で賑わう。ポスターやパンフレットには、その桜で飾られた城が綺麗な写真で載っているが、混雑するので城の散策を優先するなら春は外した方が無難だろう。