高島城 所在地 長野県諏訪市
JR上諏訪駅南西800m諏訪市役所西すぐ
区分 平城・水城
最終訪問日 2012/10/12
高島城復元天守 諏訪地方に高島城と名の付く城は戦国時代にもあったが、それは現在の高島城の北東1kmほどの場所にあった城で、茶臼山に在ったことから茶臼山城とも呼ばれる別の城である。現在の高島城は、徳川家臣となった諏訪頼忠が家康と共に関東へ移った後、代わって入部した日根野高吉によって築城された。
 天正18年(1590)に諏訪へ入部した高吉は、当初は頼忠が本拠としていた南東の金子城に入ったが、やがて新城築城を計画するようになる。そして、浮島と呼ばれる、湖畔の島状だったと思われる場所の漁村の住民を移転させ、文禄元年(1592)から築城を始めた。しかし、諏訪湖東南の湖畔は、宮川や上川の下流を中心にそこから分かれる細流が入り組む沖積部で、地盤が非常に軟弱であり、築城工事は困難が付きまとったという。そこで、石垣基部に木材を組んで補強するなど、当時の最新土木技術が用いられたが、それでも工事は慶長3年(1598)まで足掛け7年も掛かっている。また、天守を始め城内の主要建物が瓦葺きではなくこけら葺きであったのは、地盤が軟弱で重いものを乗せられなかった為ともいう。ちなみに、こけら葺きに関しては、雪の影響で瓦では割れてしまう為という説もある。
 日根野家は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍に与したが、合戦直前に高吉が病没して幼主の吉明が相続したことや、高吉の父弘就が去就不明だったこともあり、翌年に下野に減知転封され、代わって頼忠の子頼水が故地に入部した。そして、江戸時代の初期から早くも干拓が行われ、諏訪の浮城と呼ばれた高島城は次第に湖畔から遠ざかっていくこととなる。その後、寛永3年(1626)には、幕府からお預けとなった家康六男の松平忠輝を収容する為に南ノ丸が増設されたほか、軟弱地盤の為に土手や石垣の補修が頻繁に行われており、また、水害対策にも腐心していたようだ。
水堀に映える大手門と隅櫓 諏訪家は、6代藩主忠厚の頃に、二ノ丸に屋敷を構える一門家老諏訪頼保と、三ノ丸に屋敷を構える古参家老千野貞亮の間で、財政再建や内政方針の対立から政争が起き、やがて主家の家督を巡る争いにまで発展した二ノ丸騒動なども起こっているが、江戸時代を通じて比較的平穏で、そのまま移動することなく維新を迎えた。また、幕末の9代藩主忠誠は、老中職にも就いている。維新後、城は明治3年から外郭の払い下げが行われ、翌年の廃藩置県によって設置された高島県と城内の県庁も4ヶ月で筑摩県に吸収された為、城地が不要となり、同5年には東京鎮台の管轄下に置かれ、同8年には天守も撤去されて城内の建物がすべて破却された。そして、翌年には高島公園として一般開放され、時代の下った昭和45年になって天守が復元されている。
 城の構造は、本丸から北へ二ノ丸、三ノ丸、衣之渡郭と続く典型的な連郭式の城で、城下町がやや離れた北に広がり、家臣らの屋敷は南に、後に増設された南之丸は本丸から武家屋敷を挟んだ南東側にあった。この城の特徴的な部分は、城下町と城内の繋がりで、城下町にある柳口という郭から衣之渡郭へと、田や沼田の間のあぜ道を意味する縄手という名の道が1本繋がっているだけである。干拓されて湖は早々に遠ざかったが、当初は縄手1本を防御しておけばまさに浮城で、相当な堅城だったようだ。
 現在の城跡は、本丸のみが高島公園として残り、二ノ丸や三ノ丸は市街化されている為、現地から当時の縄張を連想することは難しい。目安としては、上諏訪駅南側が柳口、並木道が縄手で、並木道突き当たりの衣之渡川北側が衣之渡郭、衣之渡川と中門川の間が三ノ丸、中門川と本丸の間が二ノ丸、城南小学校の北西部が南之丸である。
天守閣から諏訪湖の眺め 訪れたのは平日の夕刻だったが、土戸門の近くに児童館があり、そこに出入りしていると思われる多くの子供達が城跡で遊んでいた。他の海城や水城でも、干拓や埋め立て、市街化などで水辺が遠ざかっているが、高島城も例外ではなく、日本三大湖城のひとつながら諏訪湖の湖岸は遥か西へと遠ざかり、現在は市街地の中に佇む城となっている。往時の威容を残すのは、大手門と橋、天守などだが、これは前述のように復元されたもので、天守は望楼型の三層五階というのは合っているものの、細部はやや往時と違っているという。