桑原城 所在地 長野県諏訪市
JR上諏訪駅南東2.8km県道424号線沿い
区分 山城
最終訪問日 2012/10/12
桑原城本丸 桑原城から南東2kmにある諏訪氏の本拠上原城の支城だが、上原城を焼き払って桑原城に撤退したという諏訪頼重の最後の行動から、一説に桑原城が本城であったともいう。高鳥屋城とも呼ばれ、戦国大名としての諏訪氏が実質的に滅んだ際の城でもある。
 桑原城の築城時期は不明だが、本城である上原城が応仁の乱勃発前年の文正元年(1466)に存在していたと見られることから、最も早ければこの頃には既に築城されていたのかもしれない。ちょうど、諏訪家内部で大祝家と惣領家が争っていた頃でもあり、時代背景から考えると支城が構築されたという可能性は十分に考えられる。また、諏訪家はこの後、惣領家を継いだ頼満によって統一され、戦国大名化して行くのだが、その過程で領土拡大による支城網の整備が行われ、桑原城が築城されたという可能性もあるだろう。この辺りは、今後の詳しい発掘調査や史料発掘が待たれるところだ。
桑原城縄張図 この頼満の跡を継いだのは嫡孫頼重で、隣国甲斐の守護武田信虎との婚姻関係から共同して小県などに出兵していたが、天文10年(1541)に信虎が嫡子晴信によって駿河へ追放されると、諏訪家と武田家の間は急転直下、敵対関係となってしまう。
 頼重は、翌年に上原城で武田軍を迎え討ったが、諏訪惣領を狙う庶流高遠頼継や諏訪大社下社の金刺氏が武田家に味方するなど、兵力差は圧倒的で、上原城で支えきれなくなった頼重は、7月2日夜に上原城へ火を放ってこの桑原城に退いた。しかし、3日夕方に陣の検分をしようと尾根を下って行く頼重を見た家臣らが、頼重が城を落ち延びるものと早合点して城から逃亡した為、近臣など僅か20名ほどが残るのみとなってしまい、夜が明けた翌4日に開城降伏したという。この後、頼重は甲斐へと護送されて切腹させられ、戦国大名としての諏訪氏は滅亡した。そして、桑原城も上原城と共に武田氏の所有となったが、上原城が武田家の諏訪の支配拠点として新たな役割を与えられたのに対し、桑原城は史料に登場せず、間もなくして廃城になったものと思われる。
桑原城二ノ丸と諏訪湖の遠景 桑原城の登山口を発見したのは、上原城へ向かおうとして入る道を間違えた為で、不幸中の幸いだった。登山道は整備されており、距離も長くなく、登りやすい。整備された道が終わるところに段郭のような削平地が2段あり、更に空堀を越えると本格的な城郭に入る。まず目に入るのはこんもりと盛り上がった首塚で、一帯には東郭の表示があり、本丸東側は首塚の部分と東郭で2段の構成となっているようだ。そこから一段上がったところは本丸と二ノ丸で、両郭は空堀で区画されているが、高さは同程度である。また、二ノ丸西側にもやや下がって削平地が見られ、東郭と対比して西郭といったところだろうか。主にこの5郭で構成された城だが、大きく見れば、同じ高さの本丸と二ノ丸を合わせた主郭と、その東西にある次段というシンプルな構造で、上原城の支城という位置付けからも判るように規模も大きくなく、中世的な雰囲気を色濃く残した城だった。