川中島古戦場
所在地  長野県長野市
上信越道長野I.C.北西2km
最終訪問日  2018/5/29
史跡公園内にある龍虎一騎討ちの像 5回に渡って武田信玄と上杉謙信が激突した、あの有名な川中島の合戦の内、最も激戦だった4回目の戦いが行われた古戦場。
 川中島の合戦の発端は、信玄が信濃攻略を進めたのに伴い、信濃守護であった小笠原長時や、信玄を2度までも敗北させた村上義清が領土を奪われ、越後の長尾景虎に援けを求めたことである。だが、それだけではなく、北信が信玄によって平定されれば越後と隣接することになり、しかも、信越国境から居城春日山城までは30kmほどしかないことから、関東管領に就任して関東経略を始めた謙信にとっても、信玄の北上は非常に脅威であった。つまり、北信諸豪族を援けるという大義名分と、実利的な自国領土の防衛という2つの理由があったのである。
 川中島の合戦が行われた年には諸説あり、5度というのも確定したものではないが、通説では最初の戦いが天文22年(1553)、2度目が天文24年(1555)、3度目が弘治3年(1557)、4度目が永禄4年(1561)、5度目が永禄7年(1564)という。ちなみに、この戦いの頃は謙信は法号を名乗る前で、3回目までが長尾景虎、4回目が上杉政虎、5回目が同輝虎と名乗っている時である。一方の信玄は、3回目までが晴信で4回目以降は信玄と名乗っていた。
 一般に川中島の合戦といえば、4回目の合戦を指す。何故かといえば、4回目以外はほとんど睨み合いの牽制に終始し、戦闘があっても本格的な両軍の激突にまでは至らなかったからで、4回目は規模が最も大きく、両軍の総力戦となった。
 合戦の端緒は、小田原城攻めから帰陣した謙信は、8月に川中島へと出兵し、川中島を突っ切って妻女山に陣を敷き、海津城の高坂昌信と対峙したことである。この上杉軍出陣の知らせを昌信から受けた信玄は、甲斐から北上して川中島の東にある茶臼山に陣を敷いたが、両軍が互いに退路を防ぐ形となった為、しばらくそのままの状態が続き、8月の終わりになって武田軍本隊が海津城へと移動した。この時の両軍兵力は上杉軍1万3千、武田軍2万といわれるが、この兵力にも他説がある。ともかく、その後もしばらく両軍の睨み合いが続き、両陣営共に長陣による士気低下を恐れたが、痺れを切らせて先に動いたのは武田軍であった。
川中島の合戦陣図 信玄が採用したのは、上杉軍に奇襲を仕掛けて妻女山から追い落とし、八幡原に控えた本隊と共に挟撃殲滅するという、山本勘助晴幸の提案した啄木鳥戦法と呼ばれる陽動伏兵戦術である。具体的には、高坂昌信や馬場信房(信春)に1万2千の兵力を割いて妻女山へ向かう別働隊とし、信玄自らは八幡原で8千の兵を率いて待ち構える作戦であった。ただし、昌信は海津城の留守を守って戦闘には参加しなかったという説もあるようだ。
 一方、謙信は城から立ち昇る炊煙の量で出陣を察知し、密かに10日早朝に八幡原へ進出していた。こうして、先手を打った上杉軍と、追い出された上杉軍を迎え討つ予定だった武田軍本隊との戦いが、霧の晴れた朝から開始されたのである。
 戦術的に武田軍の裏をかいた上杉軍は、超攻撃的な車懸の陣で攻めることができた上、兵力でも優位となり、午前中は押しに押した。逆に裏をかかれた武田軍は、寡兵の時には長所が消えてしまう鶴翼の陣にせざるを得なくなり、信玄の弟信繁、山本勘助、諸角虎定といった有力武将の討死が相次いだ。だが、妻女山へ向かった武田軍の別働隊が昼前になって八幡原へ到着すると、午後は武田軍が挟撃する形となり、押された上杉軍が善光寺平へ退いて戦いは終結した。また、真偽はともかくとして、「甲陽軍鑑」には、信玄と謙信が一騎討ちするという、非常に有名な場面も描かれている。
 戦場は、千曲川と犀川に囲まれた八幡原と呼ばれた一帯で、大軍が展開できる広い平地で行われた為か、ある研究では、両軍共に死傷率が8割を越えていたともいう。戦闘終結後、両軍は共に勝利を宣言するように勝鬨をあげたが、死傷率を見ると実質的には引き分けだったのだろう。しかし、大局的には、信玄が戦いを通して北信の支配を確立したということで、信玄に軍配が上がるようだ。
 川中島の合戦は、戦国時代を代表する武将が戦った非常に有名な合戦であるのだが、実は詳しいことはあまり判っておらず、妻女山の峰は大きくない上、周辺には武田方の山城が複数あるので、上杉軍1万3千が陣を敷くには無理があるだとか、前述のように昌信は海津城を守って別働隊には参加しなったなど、通説とは異なる説が多くある。この第4回の戦いにおける両軍の兵力も歴史家によってまちまちで、それだけではなく、川中島の合戦はもっと回数が多かったという説すらあって、有名な合戦にしては意外なことに史実の判明していない部分が少なくない。この戦いの最も参考になる資料である甲陽軍鑑が、合戦のかなり後になる江戸時代の成立で、完全に史実ではない部分があるかと思えば、フィクションと思われていた所が後に史実と証明されたりするなど、真偽を織り交ぜてあり、検証が難しい史料であるということも影響しているのだろう。
戦死者の首塚 現在の古戦場は、信玄が本陣を置いたとされる千曲川沿いの一帯が川中島古戦場史跡公園として整備され、その中には、上杉謙信が斬りつけ、武田信玄が軍扇で受けている、有名な一騎討ちの銅像が建っている。また、その周辺には、原大隅が槍で謙信を突き損なった悔しさから突き通したという執念の石や、戦死者の首塚などもあった。ただ、公園自体は標準的な都市公園であり、全体的には歴史的な雰囲気はあまり無く、至近の博物館などのほうが歴史を感じられるかもしれない。