春日城 所在地 長野県伊那市
JR伊那市駅西800m伊那文化会館南東側
区分 平山城
最終訪問日 2012/10/12
春日城本丸 伊那部氏の居城で、伊那部城ともいう。
 平家の末流と称する伊那部重慶が、天文3年(1534)に3百貫の領地を得てこの地に築城したのが春日城の始まりである。当時、伊那地方には統一勢力が無く、諏訪氏の庶流や小笠原氏の庶流が割拠する状態であった。そんな中、天文10年(1541)には甲斐守護武田信虎が子晴信(信玄)によって追放されるという事件があり、晴信は信虎時代の方針を転換して諏訪地方、伊那地方へと侵攻するようになる。
 天文14年(1545)、晴信は本格的に伊那へ侵攻を始め、これに対して上伊那の中小勢力は福与城主藤沢頼親を旗頭に対抗した。この時、その救援に向かうべく、小笠原長時の弟で松尾小笠原家牽制の為に伊那に在った信定が2千余りの救援軍をまとめ、この春日城に本陣を置いたという。史料には、鋳鍋(イナベ)に本陣を取るとあり、伊那部、つまりはこの春日城のことらしい。
 50日間の籠城の末に藤沢頼親が降伏して福与城が陥落すると、次第に伊那の豪族達も武田家に服属していったが、伊那部氏がいつ頃に服属したかは不明である。ただ、天文23年(1554)には信定が武田軍に敗れて伊那から追われており、少なくともこの年までには武田家に降ったようだ。また、この間に当主は重慶から重成、重親と代を重ねている。しかし、弘治2年(1556)には、重親が他の上伊那衆7人と共に武田家に叛いて捕縛され、城から天竜川を越えた反対側の狐島で処刑されたという。この際、同時に処刑された中に春日河内守という武将がおり、現地説明板では重親の子と推測している。ただ、記録の混乱があり、処刑に重親を含まないとする史料もあるようだ。
二ノ丸橋付近の空堀 重親の没落後、春日城に入ったのは春日河内守昌吉なる武将で、信玄が個人的に信頼する武将に与える昌の偏諱があったと推測されることから、武田氏に近しい武将であったようだが、その素性は不明である。重親の子春日河内守と名字や官途が同じであることから、伊那部氏一門の武将だったのかもしれない。
 昌吉が城主を務めていた頃には、春日城は武田家が拠点化した高遠城の支城として機能しており、後に信玄の子仁科盛信が高遠城に入った天正9年(1581)からは、昌吉は盛信の指揮に従っている。そして、翌年の信長の甲州征伐の際には、昌吉は盛信と共に高遠城に籠もり、城門を死守して討死したという。そして、春日城も同じく兵火に掛かって灰燼に帰し、そのまま廃城となった。
 城は、天竜川の河岸段丘上にあり、南東の突端部にある本丸から北西にかけて郭を重ねる梯郭式の城で、方形の本丸の西から北にかけて二ノ丸が囲い、その北西に三ノ丸が続くという構成である。城外の防御線としては、丘陵北東側と南西側が谷筋となって落ち込んでいるほか、東に天竜川の大河、やや離れて北東側に小沢川、南西側に小黒川が流れ、三方向を川で防御できる上、北西側には木曽山脈から伸びる山塊が控えているという、うまく天然の地形を防御に利用した城だ。
相当深い三ノ丸の空堀 伊那文化会館の南東側は、陽光が映える長閑な春日公園となっているが、これが城跡である。本丸、二ノ丸、三ノ丸はその間の空堀を含めて非常によく残っており、堀が深い為にそれぞれを繋ぐ橋が掛けられていて解り易く、特に三ノ丸と丘陵を区画する堀と本丸を囲う堀は見事で、思わず嘆息してしまうほどだった。本丸の先は崖となっており、この地形が城の防御力の源泉なのだが、このおかげで天竜川沿いに広がる市街地の眺めがすこぶる良い。非常に整備の手が行き届いている上、景色も良く、伊那に来た際には是非訪れておくべき城だろう。