海津城 所在地 長野県長野市
上信越道松代P.A.東1.2km
区分 平城
最終訪問日 2018/5/30
海津城鳥瞰図 戦国時代、海津城の前身として清野氏の居城があった。
 清野氏は、村上氏の一族、つまり信濃源氏の裔といわれ、村上氏に属して清野村を中心とする9ヶ村を領した小領主であったらしい。その後、武田晴信(信玄)が村上義清に敗れた天文19年(1550)の戸石崩れの少し前、晴信が戸石城の攻撃の際に行った村上家臣の調略によって武田側に寝返ったようで、信濃先方衆に編入された清寿軒という人物が史料に見える。この清野氏の居城を、信玄が山本勘助晴幸に命じて改修拡張させ、善光寺平と上杉家に対する抑えの城にしたのが海津城であった。ただ、この築城年は定かではなく、永禄3年(1560)頃といわれてはいるが、城将で武田四名臣のひとりに数えられる高坂昌信がこれより前に任命されたとしている史料もあり、天文22年(1553)の築城説もある。
 海津城築城翌年の永禄4年(1561)8月、上杉政虎(謙信)が越後から南下して妻女山に陣取り、海津城と対峙したことで、城は早速軍事拠点としての機能を試されることとなった。その知らせを受けた信玄は、最初は川中島の西にある茶臼山に陣取り、やがて海津城へ入城したのだが、両軍はここで睨み合いとなる。信玄も謙信も、硬直状態が続くことによる士気低下を恐れていたが、この状況から先に動いたのは武田軍であった。勘助の提案した、啄木鳥戦法と呼ばれる陽動伏兵戦術を実行に移したのである。この作戦は、別働隊の奇襲によって妻女山から八幡原へ上杉軍を追い出し、本隊が待ち構えて挟撃するというものだったが、城から立ち昇る炊煙の量で出陣を察した謙信は、夜間に八幡原へ進出し、上杉軍を迎え討つ予定だった武田軍本隊と上杉軍による戦いが早朝から開始された。午前中は数に勝る上杉軍が押していたが、妻女山奇襲を空振りした武田軍別働隊が午後になって到着し、挟撃する形となった武田軍が優勢に戦いを進め、上杉軍が善光寺平へ退いて戦いは終結したという。これが第4回の川中島の合戦で、真偽はともかく、「甲陽軍鑑」には信玄と謙信が一騎討ちするという、非常に有名な場面が描かれている。
内堀と本丸太鼓門 この最も激戦だった4回目の川中島の合戦後、城は変わらず北辺の拠点として機能し、昌信が城に在り続けた。ちなみに、名族滋野氏の一流である高坂氏の娘を室に迎え、名跡を継いで高坂姓を名乗ったされる昌信だが、正確には香坂虎綱と名乗っていたようで、永禄9年(1566)には旧名の春日虎綱に戻している。
 天正4年(1578)の昌信の没後、嫡子昌澄が3年前の長篠の合戦で討死していた為、次男昌元が家督と城代職を継ぎ、安倍宗貞に城代職が替わった後、天正10年(1582)に武田家が滅亡すると森長可が城主となった。しかし、6月に本能寺の変で信長が横死すると、信濃は徳川氏と北条氏、上杉氏による草刈場と化し、その混乱の中で長可が城を放棄して撤退した結果、昌元が城主に復帰して上杉家に属している。だが、昌元は真田昌幸を介して北条氏に誼を通じた為、上杉家によって処断され、代わって北信の雄だった村上義清の子景国が城代となるが、今度は副将格の屋代秀正が徳川方へ寝返った為、越後へ戻された。景国の後は上条義春、須田満親と代わったが、この満親の時に真田家と徳川家が対決した上田合戦があり、上杉家に属した真田昌幸が幸村の名で有名な次男信繁を人質として送ってきていた為、上杉氏からの援軍として満親自身が北信濃諸将を率いて支援している。
 慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ転封となった後、海津城には田丸直昌、次いでかつて海津城を領した森長可の弟忠政が入っているが、忠政は長可に対する昌元の裏切りが許せず、昌元の一族を探し出して磔にしたという。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に属した忠政は、後の2代将軍秀忠に従って上田合戦にも参戦し、戦後、同8年(1603)に津山へ加増転封となった。そして、海津城一帯は家康の六男松平忠輝の領地となり、忠輝が同15年(1610)に越後高田を加増されて本拠を移した後は、花井吉成・義雄父子が城代を務め、その後は家康の次男結城秀康の子松平忠昌、酒井忠勝と続き、元和8年(1622)に真田信之が上田から入ってからは、火災や水害を経つつ維新まで続いている。
海津城本丸戌亥櫓台石垣と北不明門 築城当時の城の規模は、後の改修によって不明となっているが、2万人を収容したと伝えられることから、当時から相応の大きさを持っていたのだろう。川中島を扼する城であるから川中島城とも呼ばれるが、江戸時代には松代城に改名され、今は海津城と松代城が半々ぐらいで使われているようだ。ちなみに、戦国時代が好きな人は海津城と呼ぶ傾向が強いらしく、自分もそのひとりである。
 現在残っている城の構造は、総石垣の方形本丸から内堀を挟んで東西南の三方を囲う二ノ丸が続き、外堀を挟んで南に三ノ丸、南西に花ノ丸という郭を擁していた。二ノ丸から三ノ丸へと出る南門には丸馬出があり、その外側に三日月堀があるが、この辺りが最も武田時代の縄張を残していると思われ、本丸の石垣や二ノ丸、三ノ丸の近世的な部分は森忠政の時代に整備されたと思われる。また、築城当時は百間堀の位置に千曲川が流れており、西から北西の守りには千曲川が重要な役割を果たしていた。この千曲川の流路変更でできた百間堀と、その東側の新堀は、江戸時代中期の構築である。
 城自体は、明治5年に廃城となって取り壊され、翌年には御殿が放火で焼失してしまい、後には城跡に鉄道が通った為、失われたものは多い。ただ、現在は公園として整備されており、石垣や城郭建造物が復元され、城としての良い雰囲気が存分にある。特に本丸の太鼓門と北不明門、東不明門は見応えがあり、丸みを帯びた二ノ丸石場門石垣や南門付近の土塁の複雑な構造、北西側の石の埋門など、珍しい構造も多く、驚きを持って散策できた。また、三ノ丸跡には真田宝物館や旧文武学校があるほか、城下町も当時の古色を残しており、こちらもなかなか良い雰囲気で、じっくりと散策しても楽しめるだろう。