福与城 所在地 長野県箕輪町
JR木ノ下駅南東1.2km箕輪南小学校南側
区分 平山城
最終訪問日 2012/10/12
福与城縄張図 福与城主だった藤沢氏の出自には2つの説がある。ひとつは諏訪神氏流とする説で、諏訪大社上社大祝の諏訪家の庶流千野光親の子親貞が高遠北方の藤沢を領して地名を称したことに始まるという。親貞の子清親は、鎌倉幕府草創期の御家人となり、弓の名手として聞こえた武将であったが、福与城の藤沢氏との系譜上の繋がりはよく分からない。もう1つは、相模国藤沢の領主藤沢義親の一門である行親が、建武の功によって尊氏より箕輪を与えられて入部したという説である。どちらの説にしても不詳の部分が多いのだが、元亨3年(1323)に藤沢信政が既に地頭だったことを示す史料もあり、諏訪庶流説が有力なようだ。
 福与城の築城は、鎌倉時代とされるが、城主や築城者などははっきりしない。だが、少なくとも前述の信政の頃までには城が築かれていたのだろう。その後の藤沢氏は、南北朝時代には惣領諏訪大祝家と共に南朝に味方し、室町時代には信濃守護小笠原氏の率いた信濃衆の中に藤沢氏の名前がある。そして、戦国時代には、近隣の高遠氏などと争ったことが見えるが、伊那地方には統一的な領主が結局出現せず、高遠氏や松尾小笠原氏などと共に伊那の有力豪族の範疇を超える存在にはなれなかったようだ。
 この頃の隣国甲斐では、守護家の内訌を収めて有力国人を打倒した武田信虎が国内統一を成し遂げたが、信虎を追った嫡子晴信(信玄)は信虎時代の方針を転換し、高遠頼継と協力して天文11年(1542)に諏訪氏を討った。これにより、諏訪地方は晴信と頼継で二分されたが、頼継は更に諏訪地方の全領有を目指して福与城主藤沢頼親と結び、武田領に侵攻する。だが、晴信は掌中にある諏訪氏の遺児虎王を奉じて頼継軍を破り、その勢いで福与城をも囲んだ為、頼親は9月28日に武田氏に臣従したという。
 その後、頼親は晴信から離反し、同13年(1544)には頼親が福与城の北にある荒神山で武田軍を迎え討ったが敗れ、福与城も攻撃されている。だが、この時の勝敗は決定的ではなかったようで、翌同14年(1545)に武田軍は満を持して北伊那併呑に取り掛かり、まず4月に高遠城を攻撃して頼継を降伏させ、更に福与城へ襲い掛かった。福与城には、北伊那の中小豪族が頼親と共に籠城し、頼親の室の兄小笠原長時がすぐ北の辰野に、その弟信定が下伊那衆を率いてすぐ南の春日城に陣を敷いた為、籠城は50日間に及んだが、長時軍が武田家臣板垣信方に敗れて撤退すると、頼親は弟権次郎を人質に武田家と和議を結んだ。これは、実質的には人質を差し出しての降伏であり、その証拠に和議の後には武田軍によって福与城に火が放たれている。
福与城本丸 この後も、頼親の反武田の意志は衰えず、天文17年(1548)に武田軍が上田原で村上義清に大敗を喫すると再び離反し、長時と共に諏訪郡への侵入も行っているが、同年6月に長時が塩尻峠で武田軍に大敗を喫すると、9月には武田氏一門の穴山信友を通じて再び降伏した。これ以降の頼親の動向は不明確で、長時の元に身を寄せ、後には長時と共に上洛して三好氏に仕えたという。天文18年(1549)に武田氏によって箕輪の城の鍬立があり、それが福与城の改修と比定されることから、この時には既に城は頼親の手から離れていたのかもしれない。
 その後の城の事跡は不明である。武田家は、伊那では高遠城と飯田城を拠点とした為、重要視されなかったのだろう。天正10年(1582)の武田家滅亡後には、上方に居た頼親が箕輪に復帰し、天竜川を挟んだ向かいに田中城を築いて居城したが、やがて福与城も掌握して再興したようだ。しかし、同年の本能寺の変後の混乱の中で、頼親は当初、家康が支援する小笠原貞慶に協力したが、後に北条氏に与した為、高遠城を奪って家康に属した保科正直に攻撃され、落城して頼親も滅び、そのまま廃城になったという。
 箕輪南小学校の南に城はあるが、学校から山側にぐるりと回れば駐車場があり、そこはもう乳母屋敷や南城といった城域である。南城の南東側は、現在は田圃となって遺構は見られないが、地名として権治郭や宗仙屋敷、赤穂屋敷の名が残り、重臣や一門の屋敷地になっていた。城は大きく北城、本城、南城の3つの部分があり、南城を北に抜けると大きな空堀と土橋が現れ、この先が本丸を始めとする本城部分で、本丸は西側と南側に一段下がった削平地が設けられ、3段で構成されている。本丸の西側には、先ほどの入口部分から続く空堀を挟んで同規模の二ノ丸がやや下がって設けられ、こちらは2段で構成されていた。その西側は崖となっているが、この二ノ丸が大手口となっていたらしい。この本丸と二ノ丸の北には、両郭を合わせた程の大きさを持つ北城が埋もれかけた空堀を挟んで造られ、これが丘陵突端部となるが、本丸から見るとかなり低い為、防御線の前線となる武者溜まりのような機能があったのだろう。
二ノ丸から本丸の切岸と空堀 本丸手前の空堀に架かる土橋の下がトンネルとなっており、ちょっとびっくりしたが、これは整備の際の重機を入れる為のものなのだろうか。往時には空堀が通路だった可能性が高い為、妻籠城のように往時は木橋で、廃城後に土橋となったものなのかもしれない。城の城下町は、当初は南東の福与に、後に西麓の三日町に置かれたらしいのだが、戦国中期に城下町があったこと自体が領主の大きさを示すもので、城の規模も大きく、流石は50日も籠城しただけのことはある城だ。また、城内は下草が刈られて整備もされており、散策が心地よかった。