飫肥城 所在地 宮崎県日南市
JR飫肥駅西1.1km
区分 平山城
最終訪問日 2015/10/17
復元された飫肥城大手門 築城は、一説には日向の各地に土持七頭と呼ばれる支族を輩出した土持氏のひとつ、飫肥土持氏が南北朝時代に行ったとされるが、その真偽を含めて詳しいことは分かっていないようだ。史料には、貞和2年(1346)に水間栄證法眼父子が城郭を構えたとの説もある。また、さらに遡って日南市にあった藤原氏系の飫肥院という荘園の政庁があった場所ともいう。
 飫肥院は、中世には前述の土持氏が勢力を築いていた場所で、南北朝時代には櫛間の野辺氏も勢力を広げてきていたようだ。史料には、康安2年(1362)に飫肥城に籠もった賊徒を土持頼宣が討ったとあり、北朝方の頼宣が南朝方の残党を掃討した戦いがあった事が見える。その後、良好だった伊東氏と土持宗家の関係が崩れるに従って、土持庶家は伊東氏や島津氏に吸収され、飫肥土持氏も時任と姓を変えて伊東氏に臣従したという。一方、飫肥城はいつの頃からか島津氏が支配するようになった。
 日向守護職に在った島津氏は、都於郡を中心に勢力を広げた伊東氏と日向の支配を巡って和戦を繰り返し、日向大隈国境の戦略的要所である飫肥には、志布志を本拠とする一族の新納忠続を長禄2年(1458)頃から藩屏として入れ、備えている。しかし、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の影響もあって、この前後から島津家中も庶家が本宗家の統制に従わなくなり、離合集散を繰り返しての内訌がしばしば発生するなど、外に力を費やせない期間が続いた一方で、伊東氏には祐堯・祐国父子という優秀な当主が出て財部土持氏を降すなど、強勢となっていた。その結果、文明16年(1484)に島津家中の乱れを示すように、当主忠昌の叔父で櫛間にいた伊作島津家の久逸が伊作へ戻ることを拒否して叛乱を起こし、祐国も共謀して飫肥へ攻め寄せ、本宗家側の忠続を攻撃するという事態になっている。この戦いで飫肥城は一旦落城するが、翌年の6月に忠昌自ら兵を率いて祐国・久逸連合軍を打ち破り、祐国は討死、久逸は降伏して城は奪還された。しかし、島津本宗家の統制は以降、より弱体化していくのである。
飫肥城縄張図 奪還の翌年、忠昌の曽祖父から分かれた島津豊州家の忠廉が、新納氏に代わって飫肥の地頭となり、後にはその子忠朝が跡を継いだ。この頃、伊東氏は祐国死後の家督争いや、その跡を継いだ尹祐の急逝後の内訌があり、島津家との争いはあったものの、そこまで継続的に外征に力を入れることはできなかった。だが、島津家も忠昌が領内の乱れに悲憤して自殺し、その子である忠治、忠隆、勝久という幼弱な当主が続いた為、国内は治まる気配を見せず、やがて勝久の義兄弟である薩州家の実久と、伊作、相州両家を継いで実力を蓄え、子の貴久を勝久の養嗣子とした忠良の対決へと状況が変化していく。
 忠朝は最初、両者の和解を試みたが実らず、実久に与して忠良方の新納氏の志布志城を奪取したり、北原氏や北郷氏と連合して伊東氏に対していたが、忠朝の子忠広や、北郷家から忠広の養子に入った忠親の頃になると、伊東氏を継いだ義祐が力を蓄え、天文10年(1541)前後から盛んに飫肥に侵入してくるようになる。これを受け、忠広は貴久に従うことを誓い、忠親は貴久の次男義弘を養子に迎えるなどして防戦したが、肝付氏と連合する伊東氏に抗しかね、永禄5年(1562)に飫肥城を明け渡して櫛間へ退き、飫肥は伊東氏、志布志は肝付氏が領することとなった。この後、忠親は家臣の活躍によって同年9月に飫肥へ復帰するが、永禄11年(1568)に飫肥は再び伊東氏へと割譲され、義祐は次子祐兵を置いて俗に伊東四十八城と呼ばれる支城網を完成させている。最初に伊東氏が攻め寄せてから、実に84年後の事であった。
 しかし、念願の飫肥を得た伊東氏ではあったが、真幸院の領有を目指した元亀3年(1572)の木崎原の合戦で島津氏に大敗して以降は叛乱や寝返りが続出し、天正5年(1577)には大友宗麟を頼って豊後に落ち延びざるを得なくなり、飫肥は再び島津氏の領有となって家臣の上原尚近が入城している。だが、島津氏の支配は長く続かず、天正15年(1587)の九州征伐に義祐の子祐兵が功を上げ、飫肥、曽井、清武の諸城を賜って日向に復帰し、その後は伊東氏が江戸時代を通じて飫肥を支配した。
 城は、酒谷川横の低い丘陵に築かれており、その南の、川が蛇行した内側に城下町を形成している。現在の本丸跡には小学校があるが、戦国時代の本丸はすぐ横の一段高い所にあり、川に迫る本丸を中心にして東西北に10以上の郭を配し、今の何倍もの規模を持つ城であった。この旧城から見ると、近世城はその南端部分にあたる。城が現在の形になったのは、貞享元年(1684)の地震後の大改修によるもので、旧城の中ノ丸から今城にかけて新たに本丸を構築し、御殿を置いた。明治4年の廃藩置県後に建物は取り壊されたが、現在は松尾ノ丸に江戸時代の書院を再現し、昭和53年には大手門が復元され、本丸跡の一角に歴史資料館もある。
旧本丸の飫肥杉 2度目に訪れた際は、たまたま秋の祭りがあった日で、落ち着いた古城という雰囲気は皆無だったが、やや離れた旧本丸だけは凛とした静かさがあり、飫肥杉が林立する独特の雰囲気があった。城から真っ直ぐ伸びる大手道を下ると、城下町には今も武家屋敷の雰囲気が残されており、これらは宮崎南部の観光名所としても名高い。また、飫肥藩出身で不平等条約の改正やポーツマス条約締結に尽力した小村寿太郎の記念館などもあり、中世から近代まで色々と偲びながら散策できる城と城下町である。