穆佐城 所在地 宮崎県宮崎市
東九州道宮崎西I.C.西3.2km
区分 平山城
最終訪問日 2015/10/17
上下段の構成となっている穆佐城主郭 穆佐城は、別名として高城や穆佐院高城とも呼ばれ、新納院高城、三俣院高城と合わせて日向三高城のひとつに数えられた。現在は、国の史跡に指定されている。
 穆佐城のある穆佐院は、建久8年(1197)に島津忠久が地頭として見えるように島津氏の領地であったが、建仁3年(1203)の比企の乱に忠久が比企能員の義理の甥であったことから連座し、北条家に領地を没収され、後に北条得宗家に次ぐ家格を持つ一門赤橋氏の所領となった。この赤橋氏からは、最後の執権北条守時や最後の鎮西探題北条英時が出ているが、2人の妹である登子は尊氏に嫁しており、その繋がりで赤橋氏滅亡後の元弘年間(1331-34)に足利尊氏が穆佐院を領したようだ。この経緯から、文献上での裏付けはないが、尊氏の命でその領地の中心である政所として城が築かれたともいわれる。
 城の史料上の初出は建武2年(1335)末で、宮方で木脇伊東氏の祐広が籠もった穆佐院政所を武家方の土持宣栄が攻略したとあり、少なくともこのしばらく前には城が築かれ、宮方の侵攻を受けていたようだ。この後、翌年早々に宮方の肝付氏が攻め寄せているが、宣栄が撃退したことが軍忠状に記されている。そして、翌3年(1336)4月には、日向鎮定の為に畠山直顕が派遣され、北朝方の重要拠点として穆佐城が本拠に定められた。直顕は、精力的に周辺の南朝勢力を切り崩して勢力を拡げて行くのだが、中央で観応元年(1350)から翌年まで観応の擾乱が勃発すると、直顕は尊氏と対立したその弟直義や尊氏の子で直義の養子となった直冬に味方して独自路線を採るようになる。これには、同じ北朝方でありながら大隅を巡って島津氏と対立した事も影響したようだ。こうして、北九州同様南九州でも三つ巴の戦いが展開された。
 その後も直顕は、楡井氏を志布志で滅ぼすなど活動的であったが、延文2年(1357)に志布志城の島津氏を攻めて敗れ、翌年の南朝方菊池武光の日向遠征では囲まれた穆佐城を放棄して三股院へ退いた挙句に敗れるなど、勢力を大きく後退させてしまう。そして、島津氏の北朝復帰で島津氏と戦う大義名分も無くなり、やがて没落した。
穆佐城縄張図 直顕没落後の穆佐城の動向は不明だが、九州探題として応安4年(1371)末に九州に入った今川了俊貞世も一時は穆佐城に在ったという説があり、総じて北朝方が維持していたようだ。この間、同6年(1373)に穆佐院を半済に指定して樺山資久に預けており、島津氏やその一門である樺山氏との繋がりが見える。了俊の京への召還後には、了俊に従っていた伊東氏が領していたとされるが、了俊と対立していた島津氏が侵入を図り、島津家当主元久の叔父伊集院久俊が一帯を任され、次いで応永10年(1403)に同じく弟の久豊が入城した。この頃、久豊は伊東祐安と和睦しており、その娘を室に迎えて子忠国を儲け、その時に坪ノ城と呼ばれた二ノ丸に記念の2本の杉を植えたが、この杉は後に巨木となり、誕生杉と呼ばれたという。
 同18年(1411)の元久没後、この久豊が家督争いを起こして強引に島津家を継ぐのだが、その乱れに乗じて伊東氏が穆佐城へ攻め込み、攻略に成功している。家督争いが同29年(1422)に終結すると、久豊はその翌々年から穆佐を含む周辺一帯の奪回に動き、この城で生まれた忠国の代に穆佐城の奪還を果たした。しかし、伊東家の家督を継いですぐの祐堯が土持氏と協力して文安2年(1445)に周辺の各城と共に再奪取して落合治部少輔を置き、以降130年以上に渡って伊東氏が支配することとなる。城主は、重臣落合氏が世襲したようで、戦国末期の伊東義祐の時代にも、伊東四十八城のひとつとして落合兵部少輔が城主に見えるが、島津氏の攻勢と調略によって天正5年(1577)末に伊東家が自壊すると、島津領となり、その家臣樺山規久が城主に据えられた。そして、同15年(1587)の秀吉による九州征伐後も島津領として維持され、川田国鏡が地頭だった慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、伊東家臣稲津重政の攻撃を2度受けるなどし、逆に清武城や宮崎城方面への出陣拠点としても機能している。このように、穆佐城は伊東、島津両家の争奪の城であり続けたわけだが、元和元年(1615)の一国一城令でついに廃城となった。ただ、天ヶ城と同様に、慶長7年(1602)前後には既に常駐の兵が城外に転じ、麓を構成していたとの説もある。
主郭と北東端部分との間の巨大な空堀 城は、大淀川の支流である瓜田川を北に、更にその支流である麓川を南から東に廻らした標高60mの丘陵にあり、後々の拡張によって丘陵全体を城郭化していた。縄張図を見ると、北東から順に大きく4つに分けられており、それぞれが深い空堀で区画され、機能が明確に分かれていたようだ。主郭は北東から数えて2つ目の区画だが、この部分は段が重ねてあるものの高低が少ない平坦な地形で、3番目の郭群との間の堀切と土塁以外は目立った防御設備も無く、城主の居住区画及び、政庁の機能が置かれていたものと思われる。最高部は北東端の区画で、郭が小規模かつ技巧的な上に高低もあり、軍事的な中心であったのだろう。恐らく、ここが最初期に整備された区画で、直顕時代、もしくは久豊時代に統治拠点としての要望から、南西に主郭が拡張されたのではないだろうか。北東端から数えて3番目と4番目の区画は重臣の屋敷地で、こちらも主郭同様広さはあるが平坦であるようだ。
 旧穆佐小学校の脇に駐車場があり、そこから丘陵へ入ると島津忠国の誕生杉がある二ノ丸に着く。この杉は、明治7年に焼失し、現在は2代目らしい。この先の空堀の右手が北東端の技巧的な区画で、前方左側へ進むと主郭となる。この北東端の部分と主郭部分は発掘調査が終わっており、木も刈られ、非常に散策し易い。ただ、訪れた時は、北東から数えて3番目の区画への遊歩道は、立ち入りが禁止されており、散策はできなかった。見所としては、やはり技巧的な北東端の区画だろうか。郭の周囲の土塁や虎口、川沿いの眺望など、いかにも城といった雰囲気がある。