松尾城 所在地 宮崎県延岡市
延岡道延岡JCT北東1.2km
区分 平山城
最終訪問日 2015/10/18
松尾城本丸 日向各地に勢力を持った土持氏の中で、最後まで存続した県土持氏の居城。
 土持氏は、田部氏を祖とするが、田部姓自体は各地にある職掌姓で、特定の血筋を表すものではない。土持氏に繋がる田部氏は、物部氏から分かれた田部氏で、直亥もしくは恒河の頃に豊後宇佐に下向し、以降は宇佐八幡宮の神官となった。ちなみに、土持氏の由来は、直亥が欽明天皇32年(571)の宇佐八幡宮造営の際に土を運ぶ事が上手であったことから、欽明帝より賜ったものであるという。
 直亥は、下向後は吾田(アガタ)の荘に城を築いて住み、子孫は貞観元年(859)に三河国へ一旦転出した後、保元2年(1157)に栄妙が県へ戻ったと伝わるが、あくまでこれは伝承上の話である。臼杵郡などに神領を多く持っていた八幡宮の、弁済使や郡司といった現地管理人として土持氏が日向に確実に在ったとみられるのは、11世紀から12世紀にかけての信村の頃で、信村は臼杵太郎や臼杵荘司、臼杵郡司とも称された。以後、門川や諸県を拠点として日向北部を中心に勢力を扶養したが、日下部盛平の養嗣子となった宣綱が文治3年(1187)に在国司職や各地の所領を譲渡されたことで、日向における土持氏の勢力は相当大きなものとなる。当時の日向国の図田帳という史料からは、全耕地の1/6程度を土持氏が支配していたことが読み取れ、どれほどの勢力だったかというのが解るだろう。
 その後、いつの頃の時代かは不明なものの、日向国内に岡富、財部、清水、大塚、瓜生野、都於郡、飫肥(時任)という諸族を分出し、これらは土持七頭と呼ばれた。県土持氏は、宣綱の子通綱の系統であり、通綱の子惟綱が岡富殿と名乗り、その子孫久栄が県荘の半分地頭になったことから県土持氏として成立したという。ただ、血統としては、久栄とは別の栄宣の系統が家を継承する形で続いた。ちなみに、通綱の兄弟である景綱の系統から、もうひとつの雄である財部土持氏が出ている。
 南北朝時代になると、北朝方として伊東宗家が都於郡に入部し、日向で力を持っていた土持氏も同じ北朝方として共同戦線を張り、伊東庶家らの南朝勢力や島津氏と戦った。この過程で両家は婚姻を重ね、長い間に渡って協力関係を続けたが、南北朝時代が終わると伊東氏は日向の領国化を志向するようになり、土持氏と対立するに至る。こうして、康正3年(1457)に小浪川の合戦が勃発したが、この戦いで有力部将の土持金綱を失うなど土持勢は敗れ、財部土持氏の景綱は伊東氏に降伏した。これにより、土持氏は県周辺を維持する県土持氏のみが存続することとなる。
小さな社が祀られている二ノ丸 松尾城は、このような情勢の中で築城された。小浪川の合戦の少し前、それまでの居城であった井上城から当主全宣が永享元年(1429)に西階城へ本拠を移し、更にその子宣綱が文安3年(1446)にこの松尾城を築いて移ったという流れがあり、情勢の推移が見て取れるだろうか。ちなみに、三城は共に当時の街道筋であった川辺街道に沿っており、いずれも眼下の水陸の交通を押さえる城であった。
 この後、戦国期に入っても争いは続き、明応年間(1492-1501)に門川城を攻略した伊東軍が北上して夏田で合戦があり、勝利した当主親佐が逆に門川城をも攻略したという。その後、両者は和睦するが、天文年間(1532-55)には再び争い、親佐の子親成は北の大友氏に人質を出してその影響下に入りつつも、更に伊東家と南で争う島津家とも誼を結んだ。
 元亀3年(1572)、木崎原で伊東氏が寡兵の島津軍に敗れると、伊東家は島津氏の圧迫で次第に崩壊して行くのだが、翌年に親成が好機と見て門川に攻め入った際にはまだ守りは堅く、撃退されている。戦後、三田井氏の仲介で伊東氏とは和睦するが、伊東家は天正5年(1577)末に伊東義祐やその一族が豊後へ落ちざるを得ない状況に追い込まれた為、土持氏にも影響があり、誼を通じていた大友家と島津家に挟まれる状況となった親成は、その勢いを見て島津家への臣従を選んだ。
 しかし、伊東一族が落ち延びた大友家では、伊東家の再興を大義名分に掲げ、翌年3月に日向へ侵攻し、その前哨戦として、大友家を離れた土持氏が目標となった。親成は、大友氏の襲来を予期して嫡男親信を薩摩へ落とし、家中をよくまとめて土持軍の士気を高く保ったが、南の門川周辺の伊東旧臣が島津家を離れて大友軍に呼応した為、完全に松尾城は孤立し、南北から侵攻されることとなる。こうして、松尾城は後詰を期待できない状況に追い込まれてしまい、兵力の差から大軍を相手に打てる手も無く、大友軍の着陣から僅か4日で落城した。そして、親成は捕らえられ豊後へ護送される途中の豊後浦辺りで切腹させられ、土持氏は滅んだ。
非常に明確な本丸と二ノ丸の間の堀切 この後、大友軍は南進するが、耳川の合戦で島津軍に大敗を喫して県一帯は島津領となり、島津配下として土持氏は県に復帰した。そして、城も改修されたというが、その城主は薩摩に在った親信という説と、親成の養子高信(久綱)という説がある。その後、天正15年(1587)の九州征伐の際、松尾城は秀吉軍に包囲されて落城し、戦後は高橋元種が県に封じられ、城も再び改修された。元種は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、守っていた大垣城で間一髪東軍へ寝返って本領を安堵され、翌年から始められた延岡城築城工事の完工をもって同8年(1603)に居を移し、松尾城は廃城になったという。
 城は、五ヶ瀬川を南の、小峰川を西の堀とし、両川に迫る丘陵突端の本丸から北西へ郭を重ねており、更に東は本東寺から松山神社、北は旧高千穂鉄道線を越えた先の丘陵にまで城地とする大規模な城である。大友氏の史料に本丸から三ノ丸までの表記があるが、それはこの主郭部と東部、北部の3区画を指す可能性があるという。現地表記の本丸から二ノ丸、それに続く三ノ丸相当の郭が主郭部で、それぞれ峰筋に段郭を備え、互いの間は切り立った堀切で画されており、技巧的な区画である。主郭部から、若干の高低差をもって続く東の区画は、割に大きな削平地となっており、往時も居住区画だったのではないだろうか。北の区画は、旧高千穂鉄道線が往時にどのような地形だったか不明だが、主郭とやや断絶しており、出城扱いだったと思われる。
 東西方向に細長く2段構成となっている本丸は、南に段郭を持っており、その上段は遊具公園、下段は駐車場となっていた。自分は本東寺から歩いたが、舗装道が続いており、軽自動車程度なら本丸直下まで車で行けるだろう。本丸北東側の二ノ丸は、東西方向に細長いくの字の郭となっており、本丸及び三ノ丸との間の空堀が明確で、見応えがある。その北東側に続く三ノ丸相当の郭は私有地のようで、畑となっており、その東に1段下がって民家があるほか、北にも堀切の痕跡や削平地が繋がっていた。そのほか、各主郭から延びる尾根筋に削平地が広がっているが、現在は杉林となっており、ちょっと散策は難しいようだ。全体としては、川際の丘城ではあるが、車道沿いはほぼ平坦であり、疲れもせずに見て回れる城となっている。