清武城 所在地 宮崎県宮崎市
JR清武駅北西1km
区分 山城
最終訪問日 2015/10/17
本丸の清武城址碑 清武の地名は、元は清滝といい、清武城も伊東氏の一族が文和年間(1352-56)に築城したという。この一族は、清滝と名乗ったとも、既に清武であったともいわれる。清滝城が清武城へ正式に変わるのは康暦元年(1379)かその翌年頃で、伊東祐行が清滝城に入って拡張すると共に改称し、自らも清武を名字とした。この祐行は、一説に宗家当主の祐重(氏祐)の子ともいわれるが、定かでは無い。
 この頃の情勢としては、永和元年(1375)に九州探題今川了俊が少弐冬資を謀殺した水島の変があり、冬資を説得して参陣させた島津氏の面目が潰された為、以降の島津氏はほぼ一貫して了俊と対立するのだが、伊東氏は了俊に従っていた為、島津氏と伊東氏も対立関係となっていた。この後、了俊は応永2年(1395)に京に召還されて探題職を解かれたが、両者の対立はそのまま残り、応永4年(1397)に島津家当主の元久、もしくはその弟久豊が清武城を攻めたことが見える。この戦いが、島津氏と伊東氏の、戦国末期までの長い長い攻防の端緒となるのだが、この時は伊東軍の奮戦によって撃退に成功したようだ。しかし、穆佐城や加江田城などの境の城は、やがて島津氏が掌握することとなった。
 次に清武城が登場するのは、文明17年(1485)である。この前年に、伊東家当主の祐堯は飫肥城主で島津伊作家の当主久逸の求めに応じて飫肥に派兵し、飫肥城を巡っての約100年に渡る争奪戦が始まるのだが、翌年の再出兵には自らこの城に後詰として入城した。しかし、祐堯はこの城で病没し、跡を継いだ子祐国も2ヶ月後には飫肥での戦いで落命してしまう。これにより、伊東氏は暫し内訌の時代を迎えることとなる。
清武城説明板 伊東氏の全盛期は義祐の時代で、伊東四十八城と呼ばれる支城網を築き、清武城もそのひとつに組み込まれ、長倉伴九郎や上別府宮内少輔が共に清武地頭として城主を務めたという。だが、両名は元亀3年(1572)の木崎原の合戦で討死してしまっており、以後の城主は不明である。また、伊東氏自体も、この敗戦を境として急速に求心力を失って行き、天正5年(1577)には、島津氏の調略などによる寝返り頻発で領国維持ができないまでに追い込まれ、伊東家当主の義祐が豊後へ落ちて日向は島津氏の支配下となった。こうして、清武城には島津家臣伊集院久宣が入ったが、久宣もまた天正15年(1587)の九州征伐に伴う秀吉軍本隊の九州上陸の際、豊後鶴崎城からの撤兵時に大友軍残党の奇襲を受けて討死してしまっている。
 九州征伐後、義祐の三男で伊東家没落後に秀吉に仕えていた祐兵に曾井や宮崎、清武などの旧領が宛がわれ、祐兵は曾井に入り、翌年には飫肥が加増され、曾井から飫肥へと移った。これにより、明治維新まで続く伊東氏の飫肥支配が確立する。そして、伊東領の宮崎平野方面の重要拠点であった清武城には、流浪時代にも付き従っていた川崎(河崎)祐長がその功を賞されて城主に据えられた。しかし、祐長は祐兵に重用された稲津重政と対立し、慶長3年(1598)には重政へと城主が代わっている。この少し前、文禄の役に祐長の子祐為が出陣し、文禄2年(1593)に祐兵の甥で義祐の嫡孫にあたる義賢と祐勝の兄弟が陣中で祐為と同じ頃に病没しているが、これには、家中の家督争いを未然に防ぐ為、祐為が重臣らの命で自らの命共々毒殺したという説が日向纂記にあるという。これが本当ならば、重臣として謀略をまとめた重政と子の命が懸かった祐長の間で、衝突があったのかもしれない。
民家に残る見事な土塁 清武城主となった重政は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦時、西軍だった高橋元種の宮崎城を攻撃して奪い、帰国の途にあった島津義弘の命を狙うなど、活発な動きを見せている。しかし、宮崎城は元種の恭順後であった為に返還となり、島津氏もやがて徳川家に従った為、外交的政治的な方針のズレから家中で孤立してしまい、祐兵の跡を継いでいた子祐慶から詰問状を送られた重政は、慶長7年(1602)にこの城に籠城し、自刃した。一説に、重政に全責任を負わせるよう助言したのは、黒田如水であったともいう。この重政の没後、城主には祐長が復帰したが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になった。
 城は、南に伸びる飫肥街道と現在の国道269号線にあたる薩摩街道の合流点に築かれており、南から見ると宮崎平野の入口、宮崎平野から見ると飫肥と都城への出口という要衝にある。立地としては、清武川に張り出す丘陵に築かれており、その縁辺を洗う清武川を天然の堀とし、いくつもの出城を備える規模の大きな城だったという。ただ、城自体は割とシンプルな構成で、頂上部から南及び西南方向へ地形に合わせて順に削平したという城であったようだ。
 日向史によく登場する城なのだが、現状ではしっかりと散策できるのは本丸の一部に過ぎない。城址碑がある部分の北側や西側は同高の削平地だが、北側は密集した竹薮で入ることもできず、西から西南に掛けては、果樹園か畑地が放棄されたようで藪化しており、僅かしか立ち入れなかった。このほか、本丸の東南側にも一段低い削平地があり、これも郭だったのだろう。また、登城口から細い舗装道を下った先に民家があるが、この民家の庭の三方は土塁跡と思われる盛土が囲っており、ここも城域だったと思われる。特に東側は、2m以上もあるような立派な土塁で、本丸の城址碑よりもこの部分に城を感じた。ちなみに、城周囲は非常に道が狭い為、車で行く場合は、やや手前の切り返すような三叉路辺りで徒歩に切り替えたほうが無難である。