田丸城 所在地 三重県玉城町
玉城町役場西250m
区分 平山城
最終訪問日 2015/5/23
田丸城本丸と天守台 伊勢神宮やその門前町である山田、関連する湊である大湊を抑える役割を持った城で、南北朝時代に北畠親房・顕信父子によって築かれた。南北朝時代は玉丸城、以降の時代は田丸城と表記されたとする説があるが、最近の研究では初期の頃から両方とも使われていた事が判明している。
 城が築かれた頃の情勢は、建武2年(1335)の尊氏の建武政権からの離反と翌年の入京、そして後醍醐天皇方の逆襲による尊氏の九州落ち、更に九州で盛り返した尊氏方の湊川での勝利と慌しく、その年の12月に後醍醐天皇が吉野に脱出した事で、いよいよ長い南北朝時代へと進んでいく。この脱出の頃、親房・顕信父子は伊勢国に在ったと見られ、翌延元2年(1337)7月には北朝方の畠山軍が田丸城を攻めたことが軍忠状に見えることから、築城は延元元年末から翌年に掛けてのことと推測されている。ただ、築城に関する直接的な史料は発見されていない。
 その後、城は南朝方の軍事拠点として活用されたが、興国3年(1342)8月に北朝方守護の仁木義長の攻撃によって10日ほどで落城し、これ以降、城の事跡は不明となる。とは言え、伊勢神宮に至近の城であり、何らかの争奪はその後もあったのではないだろうか。そして、南北朝合一後には、北畠氏が再び領有したと推測され、南伊勢の支配拠点としたようだ。
 次に田丸城が史料に登場するのは寛正6年(1465)で、伊勢神宮の自治組織である山田三方の攻撃を受けている事が見える。この頃に城主であったのは、従来は文明10年(1478)頃に伊勢神宮の神領奉行となった愛洲忠行とされてきたが、最近の研究では北畠氏の一門の坂内氏だったという説が有力になっているという。また、これに関連し、以前は忠行が北畠政郷の子政勝、もしくは顕晴を養子としたことで北畠一族の田丸氏が成立したという説が有名だったが、その成立もより時代が下るという可能性が高くなっている。これについては、政郷の子か、もしくは政郷の子材親の子である具忠が田丸城に住して田丸氏が成立したという説があり、これが有力となるのだろう。
田丸城縄張図 その後、弘治3年(1557)に公家の山科言継が田丸城に滞在しているが、北畠具教も滞在して猿楽が執り行われたことが言継卿記にあり、田丸氏が領しつつも、北畠領内におけるいくつかの主要な政治拠点のひとつであった事が知れる。しかし、その北畠氏は、永禄12年(1569)に信長に敗れて臣従し、信長の子信雄が養子に入った為、戦国大名としては事実上滅亡してしまった。そして、信雄は北畠色が濃い大河内城から天正3年(1575)にこの田丸城へ移った為、城主であった田丸直昌は城を明け渡して岩出城に移り、城は信雄の居城とすべく大きな改修が施されている。これにより、三層の天守を備えた近世的な城となった。
 だが、信雄が在城した期間は短く、天正8年(1580)に金奉行玄智が窃盗を隠す為に火を放って城郭の中心部分が焼失してしまった為、松ヶ島城を築いて本拠を移している。この間、改修翌年の三瀬の変で、具教が暗殺された三瀬御所と共に、その次男長野具藤、三男とされる北畠親成、そして娘婿坂内具義など、北畠一門が暗殺された舞台にもなっており、歴史には名を残すこととなった。
 焼失後、しばらくは捨て城同然だったようだが、天正12年(1584)に蒲生氏郷が田丸城を含めて松ヶ島12万石として与えられると、その妹婿の 直昌が田丸城に復帰し、直昌の手で城が復興されている。しかし、直昌も在城期間は短く、天正18年(1590)の小田原の役後に氏郷が会津へ移された為、それに従って田丸を去った。そして、氏郷の旧領は細分化されたのだが、田丸領分及び田丸城がどうなったかはよく分からない。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、城は伊勢で西軍に抗戦した岩出城主稲葉道通に与えられ、田丸藩が成立した。子紀通が元和2年(1616)に摂津へ移った後は、津藩藤堂領を経て元和5年(1619)から紀州藩領となり、徳川頼宣の附家老久野宗成が1万石で入部して田丸領6万石を管理している。ただし、当主は和歌山城に起居していた為、城には城代が入り、政務を差配したという。そして、この久野氏がそのまま維新まで続き、維新後、明治2年に城は廃城となり、同4年に建物類は破却された。
主郭部の入口は重層的に石垣が重なっている 城は、外城田川を南の堀とした独立丘陵に築かれた平山城で、主郭部は長方形の本丸の南に二ノ丸、北に北ノ丸をほぼ同じ標高で配した連郭式の構造をしており、その主郭部の東側にやや下がって御殿を、更に下がって各種屋敷や蔵などを配置している。これに対し、主郭部西側は、それぞれの郭の下に腰郭を備え、さらにその下にも通路としての腰郭があるが、まとまりを持った広い郭は無い。西側の一番下の堀から数えると、最高部まで都合3段もの石垣や切岸を腰郭を挟んで重ねており、相当な高さを持って屹立するような形となっている。従って、全体として見ると、東側に向いた城だと言えるだろうか。中心となる連郭式の主郭部に目を移すと、この部分が南北朝時代からの城の部分と思われるが、後の改修で石垣造となっており、特に本丸虎口辺りの重層的な石垣はかなりの迫力があった。この本丸北側には穴倉式の天守台もあり、そこからの眺めが非常に良く、城としての立地の良さを理解できる。
 城の駐車場すぐ横の玉城中学校校門の脇には、「さわやかな 部活の声や 三の丸」という句があり、中学校の場所にあった御殿は、三ノ丸と呼ばれていたようだ。重厚な石垣を抜けて本丸へ入ると、その北側に天守台があり、穴倉への入り階段が放射円状というモダンさで、非常に印象的だった。本丸虎口以外では、この天守台周辺と本丸から二ノ丸にかけてが見応えのある石垣だが、主郭部東側が総石垣なのに対し、西側は本丸のみで、北ノ丸や二ノ丸の西側は土塁と切岸になっており、防御設備の強弱がはっきりしていて面白い。高速からも近い上、石垣を見ながらの散策が楽しく、かなりお勧めの城である。