大河内城 所在地 三重県松阪市
伊勢道松坂I.C.南5.5km
区分 平山城
最終訪問日 2012/6/3
本丸跡に建つ大河内合戦400年祀碑 北畠家の一族である大河内氏の居城。
 応永22年(1415)に伊勢北畠氏の初代顕能の孫満雅が阿坂城に籠城した際、満雅がこの城を築いて弟顕雅を入れたのが最初という。満雅の挙兵自体はその前年だが、挙兵の原因が南北朝合一後の両統迭立が守られず同19年(1412)に称光天皇が即位した事に因る為、同19年から同22年までの間に築城されたと見るのが妥当だろうか。
 この満雅の叛乱は、最終的に北畠家が敗れてはいるが、幕府軍も攻めきれず、降伏ではなく和睦という形が取られ、北畠家は存続した。しかし、称光天皇が崩御した後も北朝系の持明院統である後花園天皇が即位した為、満雅は再び叛乱を起こし、正長元年(1429.1)に討死してしまう。これにより北畠家は再び存続の危機を迎えたのだが、この危機に際し、顕雅が幕府側との交渉に奔走し、また、幼かった満雅の子教具を後見して北畠家を建て直した。この顕雅の働きがあったことにより、北畠家は戦国時代まで名を残すことができたのである。
 その後、顕雅は大河内を名乗り、以降の大河内家は本家から幾代か養子を迎えたこともあって北畠一門随一の格式をもって遇され、大河内城も大河内御所と呼ばれた。やがて猛将として名の通った親泰が出た後、大河内家も世襲となったが、最有力の一族としての地位は変わらず、星合家を輩出するなどしている。
 戦国時代も終盤に差し掛かる永禄年間(1558-70)後期に入ると、尾張で勃興した信長が伊勢への侵攻を開始し、同11年(1568)頃には中伊勢までの諸豪族を降す。そして、当然のことながら南伊勢の北畠氏にも目を向け、翌永禄12年(1569)に南伊勢の攻略を開始した。この織田軍の侵攻に対し、北畠家当主具房の父で実権を握っていた具教は、大淀城に大河内氏を移して自らはこの城に入り、城に改修を施して対抗する構えを見せたが、有力な一族である木造氏を継いでいた具教の弟具政が早々に織田方に通じるなど形勢は不利で、やがて領内諸城を抜かれ、大河内城も包囲されてしまう。だが、大河内城自体は堅く守って落ちず、2ヶ月の籠城戦を戦い抜き、最終的には信長の次男信雄に娘を娶らせて具房の養嗣子とすることで和睦したのだった。
大河内城地形図 この和睦は所謂城下の盟と呼ばれるもので、和睦の体ではあるが、織田家の血縁の者が送り込まれることによっていずれ北畠家が乗っ取られることを意味する。実際、信雄は天正4年(1576)には具教を謀殺するとともに具房を幽閉して北畠家乗っ取りを完遂し、大名としての北畠氏の嫡流は途絶えてしまった。更には、同10年(1582)の本能寺の変以降は北畠姓をも捨て、織田姓に復している。また、北畠氏所縁の城であった大河内城も、乗っ取り完遂と同時期である天正3年(1575)か翌年に田丸城へと本拠が移されて廃城になっていることから、織田氏流北畠家の確立に人心面からも影響を与える為、新たな拠点として田丸城が用意され、北畠嫡流の色が残る大河内城は政策面から廃城になった可能性が高い。逆説的に考えれば、織田家の勢力が強くなったことで相対的に具教・具房父子の家中における影響力が低下し、暗殺や廃城という手段が取れるようになったとも言えそうだ。
 城は、比高数10mほどの山に築かれ、西の最高部を西ノ丸とし、そこから防御の為にまむしを放したというまむし谷から続く堀切で区切ったすぐ東側に本丸を置く。本丸の東には御納戸を挟んで二ノ丸があり、本丸の北東方向にはかなり広い馬場が設けられているが、二ノ丸と馬場は本丸から5m程度の落差があり、御納戸はそれよりも更に低くなっている。この本丸、二ノ丸、西ノ丸、馬場、御納戸という5つの郭が主郭だが、本丸の北側や西ノ丸の北側に腰郭らしき削平地が確認できるほか、縄張図を見ると北の尾根筋の突端部には櫓を置いていたようだ。また、整備された登り口は二ノ丸に通じているが、これは搦手にあたり、櫓のあったとされる北側が大手らしい。御納戸や馬場は整備されておらず、入って行くのは諦めたが、この馬場の広さや本丸の南から西ノ丸に掛けて続く断崖を見ると、籠城戦での実績が示すように標高の割に防御力は高かったのだろう。
木々が整然と茂る馬場 1度目の訪問では、どっぷりと日が暮れてしまった為に場所の確認だけしかできなかったが、2度目の訪問で城の散策をすることが出来た。1度目は暗くて解らなかったが、国道166号線沿いの駐車場に説明板が建てられているので、大河内の集落さえ分かれば城を探して迷う事も少なそうだ。城の標高は高くなく、大河内地区市民センターの前に駐車場もあるので、散策に出掛けやすい城である。堅城でもあるし、気軽に登れて城の雰囲気を味わえるなかなか良い城だった。