伊賀上野城 所在地 三重県上野市
上野市役所すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2007/10/24
上野城模擬天守 伊賀の支配拠点だった城で、国名を冠した伊賀上野城として知られている。
 天正9年(1581)の天正伊賀の乱で、伊賀忍者としても活躍した伊賀の地侍達はことごとく信長に敗れたが、その戦いで主戦場となって焼失した平楽寺跡に同年、信長の次男北畠信雄の重臣滝川雄利が築城したのが、上野城の最初という。その後、翌年の本能寺の変を経て織田姓に復した信雄と秀吉が対立し、天正12年(1584)に秀吉の側近脇坂安治によって攻略され、そのまま安治が短い期間城主となったが、翌年には秀吉が弟秀長に大和一国を与える為、筒井定次を伊賀に移した。上野城が近世城郭へと改修されたのはこの定次の時で、城の東側に三層の天守と本丸を設け、その西に二ノ丸、北に三ノ丸を置き、城の北側に城下町を整備したという。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、定次は家康率いる遠征軍に従軍していたこともあって東軍に付き、上野城自体は西軍の新庄直頼に落とされはしたが、本戦での戦功によって領地は安堵された。しかし、理由は不明確ながら、慶長13年(1608)には改易となっている。この改易の理由としては、新旧家臣の対立説や政務倦怠説、京に近い伊賀を定次に任せることに家康が不安を抱いたという説、定次がキリシタンであったという説など、いろいろ囁かれているが、定説はないようだ。
筒井時代の本丸である城代屋敷の入口の桝形 定次改易後、伊賀を領したのは藤堂高虎で、高虎自身は伊勢の津城を本拠としたが、伊賀の支配拠点として上野城を改修し、現在の城の形に完成させた。高虎は、大坂の豊臣家に対する抑えとして、また、徳川家と豊臣家が決戦する際には重要拠点として使えるよう、心血を注いで城を堅固にしたといい、城代には武名の高い渡辺勘兵衛了を据え、軍事的観点から城下町も南へ移したという。天守閣については、最初、築城途中であった今治城の資材を流用しようと考えていたものの、丹波亀山城へ献上してしまった為、新たに五層の天守閣を計画したが、竣工直前の慶長17年(1612)に暴風雨によって倒壊したとされる。これが未完成に終わった天守閣に対する通説となっているのだが、一説には、その豪壮さを徳川家に憚って自ら破却したとも伝わり、君主に対する配慮が行き届いていた高虎らしい説と言えるだろうか。その後、大坂の陣で豊臣家が滅び、戦時の拠点としての役割を失った為か天守は築かれず、出奔した勘兵衛に代わって高虎の弟高清、高清死後は藤堂元則から始まる藤堂采女家が城代を世襲した。ちなみに、元則の藤堂姓は高虎から与えられたもので、元は伊賀の地侍であり、中央権力にあまり服さなかった伊賀の地侍を懐柔する役目としては、内部の事情にも明るく適任だったのだろう。
内堀と日本一の規模の高石垣 城は、比高30m程度の高台に築城されており、築城の名手として名高い高虎がよく使った高石垣は、この城においても効果的に使われ、高さ約30mもある内堀の高石垣がいまだにその美しさを保っている。未完成のまま倒壊した藤堂時代の天守は、筒井時代の場所から見て西に建てられ、筒井時代の天守閣と御殿は後に城代役所として使用された。ちなみに、この筒井天守は藤堂天守よりも長寿で、天守閣内の説明板によれば、寛永10年(1633)8月10日の暴風雨で倒壊するまで存在したらしい。
 現在の城跡は、外堀などは埋め立てられたりしているものの、天守や城代屋敷を中心とした主郭部分は整備されて公園となっており、城跡から眺める景色は非常に良かった。一番の見所はやっぱり高石垣で、内堀から高々とそびえる井楼積の高石垣は見事というほかなく、大坂城と並んで日本一の高さを誇る。城の建物は、明治6年の廃城令で廃城となった後、全国の城と同様に取り壊されたが、その後、完成することのなかった天守の代わりに、三層ながら昭和10年に川崎克氏が私財を投じて建設した木造の模擬天守が建てられた。この天守は模擬ではあるのだが、木造の良さか非常に重厚感があり、往時のものと言われればそのまま信じてしまいそうな雰囲気が漂っているほどで、なかなか出来が良い。つくづく、城は木造でなくてはと思わされた。