安濃城 所在地 三重県津市
伊勢道安濃S.A.西1.2km安濃工業団地西側
区分 平山城
最終訪問日 2015/5/23
安濃城縄張図 弘治年間(1555-58)に細野藤光によって築城された城で、中伊勢地域最大の城。
 細野氏は、中伊勢を支配していた長野一族であり、宗家である長野氏自体は、有名な曾我兄弟の仇討ちによって殺された藤原南家流の工藤祐経の三男祐長が、伊勢平氏掃討の為に長野の地頭職に就き、その子祐政が下向して長野を称したのが始まりとされる。ただ、あくまでこれは伝承であり、出自不明とする史料もあるようだ。そして、この祐政の孫祐宗が分家したのが細野氏で、細野城を築いて地名を姓としたのが最初という。
 祐宗の時代は南北朝争乱の頃で、伊勢の有力な北朝方だった長野氏は南朝の主力北畠氏と対峙していたが、祐宗や兄祐高を始めとした長野一族は、甥で長野当主だった藤房に叛き、北畠氏に味方して貞和2年(1346)に本拠長野城を落城させている。これにより、藤房は自刃し、子豊藤は京に逃れ、長野宗家は一旦滅んだ。宗家が再興されるのは、幾度かの長野城への復帰と失陥を経た延文5年(1360)の仁木義長の籠城後と見られるが、この後には豊藤の子藤信が細野家に入嗣したことが見える。細野家を滅ぼした上で名跡を継がせたのか、子を入れることで和解の印としたのかは不明なものの、以降の細野氏は藩屏としての役割が強くなったようだ。
 次に細野氏が歴史に登場してくるのは戦国時代で、宗家から入嗣した藤光の時代である。宗家の長野氏は、南北朝合一後も北畠氏と争い続け、それは応仁元年(1467)から始まる応仁の乱でも同様だったが、戦国時代前半には北畠氏と争いつつも北伊勢へも威勢を振るった。しかし、北伊勢で次第に利を失い、藤光の父稙藤や兄藤定の時代には南の北畠晴具・具教父子から激しい攻勢を仕掛けられるようになり、永禄元年(1558)には具教の次男具藤を藤定の後継とすることで和睦している。これは、つまり臣従を意味しており、大名としての長野氏の滅亡でもあった。
 安濃城は、この臣従の直前の築城であり、新たな築城からは逼迫した長野氏の状況が窺えるのだが、細野城と比較すると、長野氏の本拠である長野城から北畠領方向の南ではなく北東へ離れており、どういう意図があったのかはよく分からない。後に藤光は安濃津城を築いたとも言われていることから、安濃川流域を押さえる目的があったかも知れないが、殷賑の湊と言われた安濃津の湊は明応7年(1498)の明応の地震による津波で壊滅しており、経済的な目的というわけでもなさそうだ。
明確に残る櫓台 その後、細野家は北畠氏と一体化した長野氏に従って亀山の関氏などと戦っているが、永禄11年(1568)には尾張の織田信長の侵攻に遭い、藤光の子藤敦は、この城に籠もって織田家臣滝川一益の攻撃に抗している。藤敦は剛勇で知られ、当然のように徹底抗戦を主張していたのだが、長野家中では弟の分部光嘉、川北藤元が信長の弟信良(信包)を当主として迎える和睦を画策していた。弟らは、藤敦が主君具藤と折り合いの悪かった事を利用して藤敦寝返りの流言を流し、それを信じた具藤に藤敦を攻めさせることによって抗戦派を分断させ、結果、藤敦は具藤を破って追放した上で、已む無く信長に臣従することとなる。家中での和戦分裂はよくあることだが、抗戦派も分裂した3分裂というのは珍しい。
 これにより、城は落城を免れ、藤敦はその後も城に在ったが、やがて信包とも対立したようで、天正8年(1580)に信包軍の攻撃を受けており、藤敦は城から落ち、蒲生氏郷を頼ったという。これと同じ年、新たに信包が本拠とした安濃津城の本格的な普請が完工しており、織田家では城割政策も始められていたことから、そのまま廃城になった可能性が高い。
 城は、安濃内多工業団地の南西側、安濃川沿いの台地にあり、藤光の築城後、藤敦によって拡張された。大まかに見ると、城は北西端の方形の本丸から南東方向に2列の方形の郭を段々に重ねた縄張となっており、山城における武家屋敷の並びを連想するような形となっている。本丸には、北西側に巨大な土塁が残っており、その一角は基壇が大きく櫓台であったようだ。また、その更に北西側にも切岸と空堀を挟んで方形の郭が築かれており、本丸の櫓を含め、手薄な北西側への防備が見て取れる。本丸の虎口は南西側と南東側の2ヶ所あり、南東側は明確に、南西側は大体の形として、食い違い虎口が確認できた。ただ、南東側虎口は本丸の神社側の遺構が不明瞭で、改変があったのかもしれない。これ以外の大きな見所としては、城の中央部にある空堀が大規模で、中央付近から次第に深くなりながら南東方向へ伸び、途中で城を二分するように北東方向へ鍵型に曲がりながら抉られている。これに付随する南側の土塁も非常に高さと厚みがあり、かなり立派だった。この空堀の南東側にも同じように武家屋敷地のような段々の削平地が幾段も続き、全城域としてはかなり大規模である。
本丸跡に建つ阿由多神社 松原寺から山へと入っていくと、すぐ巨大な土塁が目に入り、その向こう側は大きな空堀となっていた。これが城を二分するほどの空堀なのだが、本丸側は鮮明で深く、北東側は浅く不鮮明となっている。谷のような地形であるが故、長年の堆積で浅くなってしまったのだろうが、巨大なだけに非常に惜しいところだ。城全体のイメージとしては、全体的に城内が緩やかで、整った方形に近い郭が多く、城というよりは屋敷地という感じの穏やかさがある。また、竹がや杉が中心で下草が少なく、楽に散策できる城でもあった。