二條陣屋
所在地  京都府京都市中京区
地下鉄東西線二条城前駅南100m
最終訪問日  2008/10/8
二條陣屋の外観 二条城や京都所司代に伺候する中小大名の陣屋として利用された建物。
 この建物は、両替や米穀が生業の豪商萬屋の店舗兼住宅として建てられたものである。萬屋を興した平右衛門の父は、かつての大名小川祐忠で、平右衛門はその嫡男という。ただ、現地案内板にはその名は千橘とあったが、史料に出てくる嫡男は祐滋といい、どちらが実際の平右衛門だったのか、あるいは両者が同一人物だったのかはよく分からない。一方で、大和国吉野郡小川郷の豪族だったという説もあり、こちらも根拠となる物証があるという。
 小川祐忠の小川家は、近江源氏の嫡流佐々木六角氏の重臣だった家系で、六角氏が衰退して浅井氏が台頭した頃には浅井氏の家臣となっていたが、祐忠の代に浅井氏が信長に敗れて織田家に属した。その後、祐忠は天正10年(1582)の本能寺の変直後は明智光秀、光秀が敗れると柴田勝家の養子勝豊に仕え、更に勝豊が賤ヶ岳の合戦直前に秀吉に寝返った後、勝豊が病没すると秀吉に出仕するようになり、やがて伊予の今治7万石を領している。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、当初は西軍に属し、戦いの最中に東軍へ寝返ったものの、それまでは敗者側に居ながらも不思議と勝者に拾われて生き延びていた祐忠だったが、この時はさすがにその強運も尽きたようで、それまでの内応歴が嫌われたのか、三成と嫡男祐滋が親しかったからかは不明だが、結局は改易となってしまった。
 父と共に禄を失った平右衛門は、京に出て商いで成功するのだが、三成と昵懇であった嫡男祐滋が平右衛門であるとするなら、三成や長束正家、増田長盛などとともに理財に詳しかった近江武士の系列に属していたと思われ、商人としての素養は十分だったのだろう。ただ、平右衛門の父が祐忠であればという前提での話で、推測の域は出ない。
 建物は、萬屋の店舗兼住宅として寛文10年(1670)頃に建てられたものであり、中小大名が京に滞在する時の宿舎でもあった。平右衛門は、最初は現在の弁護士及び司法書士といった仕事をする公事師として身を起こしたともいわれ、もともとは裁判を待つ間の宿、つまり公事宿もしていたらしい。それが萬屋の発展で上級武士の宿舎としても認められるようになったようだ。
 建物は、現在は火災や改築などで店舗構造は無くなっているらしいが、内部は隠し階段や釣り階段、見張用の武者隠しなどの身辺警固の為の設備、防火や飛び火による類焼防止の工夫が施されている。また、内装なども、豪商の住宅及び上級武士の宿舎として贅を尽くしてあり、当時の高級住宅がどのような感じであったのか知るには丁度良い。このような建築的価値から、建物は昭和19年に旧国宝に指定され、昭和25年には重要文化財に指定された。民間の住宅としては、全国で2番目の指定だったという。ちなみにニ條陣屋とは、公開にあたって新たに付けられた名前らしい。