二条城 所在地 京都府京都市中京区
地下鉄二条城前駅北すぐ
区分 平城
最終訪問日 2008/10/8
二条城東大手門と城址碑 歴史上、二条城は複数あり、古くは二条に在った室町将軍の居館をそう呼んだ。転じて、場所に関係なく将軍の居城を二条城と呼ぶようになったという。ただ、将軍家の居城としては二条御所や武家御所という呼称の方が一般的である。また、現二条城とそれ以前の二条城は、歴史的にも地理的にも連続したものではない。
 戦国時代の二条城としては、13代将軍義輝が謀殺された居館城郭があり、信長が15代将軍義昭の為に義輝の二条城跡に築城した城があった。前者は、永禄3年(1560)に完成し、同8年(1565)の謀殺の際に焼失しており、後者は、信長の義昭擁立と入京を経た同12年(1569)に築かれ、元亀4年(1573)の室町幕府滅亡で役目を終えている。いずれも短命で、二条からかなり北にあるが、歴史上、非常に重要な城だ。ちなみに、室町幕府滅亡後、二条城は信長の宿所として使われたり、後に資材が安土城に転用されたというが、詳細はよく分からないという。
 その後、信長は京に滞在する間は妙覚寺や相国寺などを使ったが、天正4年(1575)に妙覚寺東隣で空き家となっていた二条屋敷を気に入り、改修を命じた。二条御所の資材などを使った工事は翌年に竣工し、屋敷は二条御新造と呼ばれたというが、これが俗に言う信長の二条城である。だが、御新造は2年ほど使われただけで同7年(1579)に誠仁親王へ献上された。そして、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、妙覚寺に宿泊していた信長の嫡子信忠が、妙覚寺より守備力のある御新造に籠城し、城として機能している。しかし、信忠は身辺の者しか連れておらず、当たり前のことながら衆寡敵せずに結局は村井貞勝らと共に自刃し、御新造も灰燼に帰した。
 本能寺の変後、秀吉が政権を確立していくが、その過程で天正11年(1583)に二条第、同14年(1586)には聚楽第を築いている。これも二条城と機能は同様で、秀吉の二条城と言えなくもないのだが、聚楽第の名が有名で二条城と呼ばれることはない。
 現存する二条城は徳川家の二条城で、築城は関ヶ原の合戦の翌年である慶長6年(1601)に天下普請として始められ、翌々年の同8年(1603)に一応の完成を見た。同年は家康が征夷大将軍に就任した年だが、将軍宣下を伏見城で受け、祝賀の儀を落成間もないこの城で行っている。その後、同11年(1606)には天守が完成し、同16年(1611)の秀頼との会見もこの城で行われ、同20年(1615)の大坂の陣での本営ともなった。
二ノ丸東南隅櫓 家康の頃の二条城は単郭方形の城であったが、現在の形へ改められたのは3代家光の時である。寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸に備えて大規模に改修され、城地を西側へ拡張し、本丸と二ノ丸が造成された。天守に関しては、それまで単郭の北西隅にあった望楼型五層天守を淀城へ移し、廃城となっていた伏見城の層塔型五層天守を本丸の南西隅に移築している。
 その後、京の政治的重要性の後退から、寛永11年(1634)の家光入城以降、幕末まで城に将軍が訪れることは無かった。その間、二条城代と二条城番が置かれていたが、寛延3年(1750)には落雷で天守が、天明8年(1788)には市中からの飛び火で本丸御殿と隅櫓、多聞櫓、二ノ丸の東北と西北の隅櫓を焼失し、その他の建物も次第に荒廃したという。
 次に徳川将軍が入城したのは14代家茂の時で、攘夷論が沸騰する文久3年(1863)のことであった。城は、将軍上洛に先立って前年から御殿などの補修と増設が行われ、家茂の死後に最後の将軍となった慶喜も二条城を宿所としており、将軍宣下と大政奉還はこの城での出来事である。また、明治元年には、現在の内閣に相当する太政官代が置かれるなど、幕末から維新にかけては京都の政局の中心であった。
 維新後、二ノ丸御殿に京都府庁が置かれるなどしたが、明治17年には二条離宮となり、旧桂宮邸が本丸へ移築されている。そして、昭和14年には京都市に下賜され、翌年から元離宮二条城として公開が始まり、平成6年には世界遺産にも登録された。
 城の構造は、将軍家の宿所兼臨時政庁という性格から、南北約300m、東西約500mの長方形の二ノ丸の内側西寄りに一辺約150mの方形の本丸があるという、至ってシンプルなもので、それぞれ石垣と堀に囲まれている。二ノ丸は四方に門を持ち、北と東が大手で、現在は東大手門が出入口となっていた。また、西門だけが桝形になっているようで、南門は大正時代に開けられた門らしい。二ノ丸の内部は、内堀の中ほど南北に中仕切門があり、見ようによっては東西2つの郭での構成と見ることもできる。本丸は東西に2つの門を持ち、西門が外桝形、東門が内桝形で、さすがに防備にも力を入れた様子が窺え、東門には明治初期まで2階建ての渡り廊下があったという。
二ノ丸御殿と庭園 訪れた時は、平日ながら外国人や修学旅行生が多く、さすが観光名所という感じだった。唐門や二ノ丸御殿の内部は重厚かつ豪華という言葉しか浮かばず、当時の最高権力者による武家書院造の極致なのだろう。御殿以外では庭園が印象的で、家光による改修時の二ノ丸庭園、明治の本丸庭園、昭和の清流園とそれぞれ特徴が異なっていて面白い。また、二ノ丸庭園と二ノ丸御殿の配置は、絶妙な風景だった。惜しむらくは、本丸で幕府の威容を示していたであろう五層天守が残っていないことだが、さすがにそれを言うのは贅沢なのかもしれない。