松倉城 所在地 京都府久美浜町
久美浜小学校後背
区分 平山城
最終訪問日 2001/10/25
 現地には松倉城とあるが、久美浜城とも呼ばれ、築城は一色氏時代にこの地を領していた小領主だと思われるが、詳細ははっきりとせず、わずかに松倉周防守が居城としていたということが史料にはある。
 天正10年(1582)に長い間守護として丹後を支配した一色氏が細川藤孝に滅ぼされると、松倉城には家臣松井康之が居した。松井康之はもともと足利義輝に仕えた幕臣だったが、義輝暗殺後は藤孝と行動を共にし、やがて細川家の重臣として活躍した武将で、豊臣政権時代に秀吉が石見半国の領主として取り立てようとしたほどの人物である。そのような人物が置かれたということは、当時の久美浜が丹後の重要な拠点であったことを示しているのだろう。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、藤孝・忠興父子は東軍に与したが、忠興が家康と共に出陣していた為、丹後には僅かな守備兵しかおらず、留守を守っていた藤孝は、丹後の諸城を破却し、それぞれの守備兵を田辺に集中させ、西軍に備えて籠城した。この時、松倉城主の康之は豊後杵築城の受け取りの為に九州におり、主がいない松倉城は細川輝経が守っていたともいうが、やがて城は藤孝に破却されたか、西軍に焼き払われたらしい。いずれにせよ、戦後に細川家が九州豊後に移封となった為、廃城となったのは間違いなく、また、守将だったともされる輝経は、戦後に内通を疑われて切腹となっている。
 江戸時代の久美浜には代官所が置かれ、明治維新で再び久美浜県が置かれることになってこの地は県庁として発展した。だが、残念ながらその期間は短く、今は閑散とした田舎の町に過ぎなくなってしまっている。
 城は、県庁施設造営の為に松倉山が削平された為、その遺構は失われてしまっており、県庁だった土地も久美浜小学校となって、過去の痕跡は無いに等しい。削平されてしまった城跡には城山公園があるらしく、何か残っているかもしれないと入口を探したが、残念ながら発見できなかった。