福知山城 所在地 京都府福知山市
福知山市役所東500m
区分 平山城
最終訪問日 1999/8/21
 明智光秀が丹波攻略後に築いた平山城。
 もともとは、眼下に土師川、由良川の合流点を見下ろす舌状台地の横山に、豪族塩見氏が文亀年間(1501-04)頃に築城した横山城があり、更に遡れば、弥生時代にも砦として利用されていたと推測されている。この塩見氏は清和源氏小笠原流とされるものの、その他にも諸説があって出自は不明確であるが、信氏の時に足利尊氏から天田郡を与えられたとの伝承を持ち、横山城が築かれた頃に天田郡に入部したと見られる。この時の当主は頼勝で、守護代内藤氏の下で天田郡一帯を治め、福知山市内の猪崎城に本拠を置き、横山城には長子の頼氏を入れて横山と名乗らせたらしい。従って頼勝か頼氏が横山城を築城したと思われる。また、頼勝は本拠であった猪崎城を三男の利勝に継がせ、利勝はそのまま塩見と称したらしいので、どういう事情かよくわからないが、長子でありながら頼氏は分家の扱いだったようだ。
 その後、頼氏の子信房の時代と思われるが、永禄8年(1565)に黒井城主荻野直正の攻撃を受け、これを一族挙げて撃退したものの、松永久秀の実弟で守護代内藤氏を継いでいた宗勝が同年に直正と戦って敗死すると、横山氏も後ろ盾を失い、赤井氏に臣従したようである。更に、天正3年(1575)から織田家臣明智光秀による丹波攻略が開始され、横山城も八上城や黒井城が落城した天正7年(1579)に落城し、横山氏や塩見氏は滅びた。
 丹波を平定し、信長から同国を与えられた光秀は、本拠を近江坂本と丹波の亀山城に置いたが、丹波北部の要衝である横山城も支配拠点のひとつとして改修し、福知山へと名も改め、一族の明智秀満を置いた。だが、光秀が天正10年(1582)に本能寺の変を起こし、秀吉に山崎の合戦で敗れると、代わって福知山城には杉原家次、そして小野木重次が城主として入った。重次は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に付き、東軍の細川幽斎が籠る丹後田辺城を攻囲して開城させたが、関ヶ原の本戦で西軍が敗れると城へ逃げ帰り、恭順の姿勢をとった。だが、田辺城の件や妻ガラシャの死で怒りに燃える細川忠興が福知山城に攻め寄せ、やむを得ず籠城戦になってしまった。結局、城は堅固で容易に落ちず、重次は仲介を受けて助命を条件に開城し、沙汰を待ったが、忠興の怒りが収まらなかった為か、田辺城攻撃のスケープゴートにされた為か、最終的には赦されず自刃している。
 福知山城が本格的に改修され、現在の近世平山城の形を整えたのは、関ヶ原の合戦以降に入部した有馬豊氏時代と思われる。有馬氏の後は僅かに天領を挟みつつ岡部氏、稲葉氏、深溝松平氏と続き、朽木氏が寛文9年(1669)に入部してからは移動無く維新を迎えた。
 現在は、丘陵突端の天守丸、本丸跡が城址公園となっているが、石垣造りだったとされる西の二ノ丸は台地が削られて民有地となり、跡形もなくなっている。更に西へ続く三ノ丸こと伯耆丸は伯耆丸公園として整備され、その南西に内記丸があり、本丸と二ノ丸の北には対面所と大膳丸があった。ちなみに、現在内記町となっている場所は、内記丸があった場所ではなく大膳丸があったところである。また、唯一の城郭建築物としては、銅門脇番所が公園に移築されている。
 現在建っている三層四階の天守閣は、昭和61年に福知山市によって復元されたもので、その内部は資料館となっており、光秀時代から江戸時代、はたまた大江山の鬼退治に向かったライコウさんこと源頼光までの資料が大規模ではないが並んでいる。また、夜はライトアップされており、いかにも市のシンボルという雰囲気である。
 福知山ではいまだに、町の整備に尽力した光秀を敬う風潮があり、謀反人としてではなく、良い領主としての実績が残っている。拠点として構築された福知山城が、戦国期の山城のような軍事の城ではなく、標高もあまりない統治の城という性格になっているのは、丹波を善政で治めようという光秀の決意の表れのようであり、福知山市民の光秀に対する感情も、いたるところにあるコミカルなマスコットから親しみを持たれていることが知れる。